■北朝鮮・拉致事件関連年表(作成/藤岡広之 平成14年3月18日 訂正:平成14年8月3日、8月11日)
★☆救う会全国協議会ニュース★☆(2002.3.22)
■北朝鮮・拉致事件関連年表
(作成/藤岡広之 平成14年3月18日)
この年表は大阪府の藤岡広之さんが作成したものです。ご参
考までお送りします。なお、大きな誤りはないと思いますが救う会はこの内容について保証するものではありません。引用等については各自の責任においてしていただきますようお願いします。
|
1907年 明治40年========
| 8月 日本によって、強制的に韓国軍は解散させられる、脱営した多くの兵が
抗日義軍に参加し各地で日本軍と戦った。そのとき「キム・イルソン」将軍が
活動した。日本人も証言。 |
1909年 明治42年========
| *この年.金亨稷(キムヒョンジク)15歳、康盤石(カンバクソク)17歳と結婚。二
人はキリスト教(新教)信者だった。 |
1910年.明治43年========
1911年.明治44年========
1912年.明治45年.大正元年====
| この年中華民国が成立し、チベットが独立。 |
| 4月15日 康盤石(カンバクソク)長男を出産、名前は金聖柱(キムソンジュ)。後の金日成(キムイルソン)。北朝鮮が公式に認めている本名は(ソンジュ)成柱(成も聖もハングル表記は同じ)は1910年代以降「金日成将軍」と呼ばれ、満州とシベリア一帯で活躍した闘士の名前を盗用し、それらしくするため、もとの名は金成柱だったと偽装した。 |
1917年 大正6年========
| 金亨稷は金日成が満七歳のときに満州へと移住し、同胞を相手に医者となった。 |
1918年.大正7年========
| *この年シベリア出兵、同地方は朝鮮独立運動の根拠地だったので、赤軍と朝鮮独立軍と共同戦線をはって日本軍と戦った。 |
1919年.大正8年========
1923年.大正12年========
| 7月29日 東亜日報に朝鮮の独立運動家のインタビュー記事、白馬を乗り回した事などが書かれていた。彼は金日成などの別名を使っていた。彼の本名は金光瑞(キムガンソ)近衛師団騎兵第一連隊の中尉だった。三・一独立運動の時、満州へわたり、独立軍を編成したが1925年夏から消息不明になった。 |
1925年.大正14年========
| *この年中国とソ連がそれぞれ日本と協定を結び、自国領土内で抗日独立運動を行なう朝鮮人を弾圧に乗り出した。 |
1926年.大正15年.昭和元年=======
| *この年金亨稷は金日成が十四歳のときに満州の地において三十二歳で客死している。金亨稷が独立運動にある程度は参加したことは認められている。19年の三.一運動が平壌周辺に波及したときの記録がある。その後に満州に移住してからも反共的民族主義の独立運動団体との関わりがあったことも記録されている。*この年朝鮮共産党満州総局が設立される。 |
1928年.昭和3年========
| 12月 モスクワで開かれたコミンテルンで討議された結果、派閥闘争に疲れ果て、また知識人中心組織ゆえに効果的な闘争を展開できなかった朝鮮共産党はもはや解体するしかない、いわゆる「12月テーゼ」が発表された。 |
1932年 昭和7年========
| 金日成の母康盤石が四十歳で死去する。金日成の母方の家は単なるキリスト教徒ではなくきわめて篤実なキリスト教徒であった。母方の祖父.康敦_(カンドンウク)は万景台一帯で信望の厚い教育者で、長老会教会の長老として自宅内に昌徳(チャンドク)学校という私立の学校を設け、キリスト教はもちろん、一般の科目についても熱心に教育を施した。康敦_のまたいとこが康良_(カンヤンウク)で、彼は後年に北朝鮮でいくつかの要職を歴任している。康敦_がどれほど深くキリスト教を信仰していたかは、自分の娘、すなわち金日成の母の名を「盤石」と名付けたことからもうかがえる。イエスがペテロに「あなたは私の盤石だから、お前の上に教会を建てよう」と語ったように、「盤石」はキリスト教で特別の意味をもつ言葉である。 |
1936年 昭和11年========
| 9月29日 京城日報に「金日成」の名をあげた最初の記事、匪首金日成一党120人食料や物品を強奪・・・。 |
1937年 昭和12年========
| ソ連は沿海州一帯の朝鮮民族を中央アジアのウズベキスタン.カザフスタンなどの荒蕪の地に強制移住させた。理由は反ソ感情が日本への協力という事態へつながるのを恐れたためである。この強制移住の対象となった朝鮮人はおよそ十八万人で、射殺されたり移住の途上で死亡した人々は二千五百人に上ったという。 |
| 6月4日 普天堡(ボチョンボ)は咸鏡南道恵山鎮付近の白頭山に近い村である。行政区域を記しておけば、咸鏡北道甲山郡普天面普田里となる。 金日成は二百人ほどの兵力を指揮してこの村を奇襲し、日本の警察支署などを破壊、放火した。翌日、 反撃する日本警察を撃退して崔賢率いる兵力と合流し、再び日本軍を撃破、十人余を殺した11月13日金日成は満軍歩兵第7団第1営の包囲攻撃を受け、部下8人と共に射殺された。年齢は35,6歳、本名は金成柱、モスクワ大学に通っていた。 |
1940年 昭和15年========
| 2月 関東軍は東北抗日連軍の総司令官.楊靖宇(ヤンジンウ)を一週間追撃し、ついに射殺した。このとき三十五歳だった。関東軍は楊靖宇の死体の腹を割いてみた。彼の胃の中には樹皮や草しか入っておらず、穀物の類はまったくなかったという。東北抗日連軍の遊撃隊員がどれほどの苦難を耐え忍んだかを手にとってみせつけられるようなエピソードである。さすがに関東軍も楊靖宇の勇敢さには敬意を表した。僧侶に念仏を唱えさせ、日当たりのよい場所に墓標を立てて、後に立派な墓石も設置した。(北朝鮮の官製歴史書には楊靖宇の名さえみあたらない。) |
1941年 昭和16年========
| 12月 太平洋戦争開戦に先だち日本人と朝鮮人の活動家が大量に予備検束されるが、韓徳銖(ハンドクス)はその中に入っていない。日本の官憲はかれを安全な人物とみていた。かれは創氏名(植民地下の朝鮮人に強要された日本名のこと)を西原健一といった。創氏改名を拒否して断固としてたたかった朝鮮人もいるなかで、かれはかなり従順な人物だったようだ。 |
1942年.昭和17年========
| 2月16日 金正日、ソ連極東部ハバロフスク近郷で誕生。 |
1945年.昭和20年========
| 8月9日 朝鮮半島にソ連占領軍が侵入。 |
| 8月15日 日本が連合国に降伏し、第二次世界大戦終結。 |
| 8月17日 民族運動を指導していた非共産主義系指導者である_晩植(チョマンシク62歳)は平安南道建国準備委員会の発足を宣言した。 |
| 9月 元山湾に一隻のソ連艦艇から「八十八特別旅団」の朝鮮人パルチザン金日成らが上陸する。この日、金日成とともに元山港に下り立った兪成哲(ユソンチョル)が興味深い回想を残している。「金日成は私たちにこう頼んだ。もし『金日成将軍も来られましたか』と聞かれたら『その方は後ほど来られます。われわれは先発隊です』と答えてほしいと。また金日成はもし『金日成将軍はおいくつになられますか』と聞かれたら『お目にかかったことがないので、よくわかりません』と答えてほしいと」。 |
| 9月 金日成は、ソ連軍大尉の階級章をつけ、ソ連軍が彼に与えた「平壌市衛戍司令部副司令官」の任命書を携えて平壌へ向かった。彼は平壌に駐屯する第二十五軍軍事委員レベジェフ少将に紹介された。金日成の副官.文日(ムンイル)がロシア語通訳を行った。レベジェフの回想によれば、金日成はレベジェフに「司令官、私たちもソ連第二十五軍とともに日本との戦争に参戦したことにしてください。」と懇願したという。レベジェフは彼の申し入れを一言のもとに拒絶したという。 |
| 9月30日 平壌市の高級料亭「花房」で、メクレル中佐は金日成を_晩植に引き合わせた。先着して部屋の隅に座を占めていた_晩植に対し、金日成は部屋の入り口から「先生、金日成です」と挨拶した。(自らを金日成と初めて名乗る)まずメクレルが_晩植にソ連占領軍への協力を依頼すると、_晩植は統一国家樹立のために、ソ連のほうこそが朝鮮に力を貸していただきたいと何度も述べた。金日成は盛んに酒を飲み、喋りまくった。_晩植は「自分は長老会(キリスト教の一宗派)の者であるから」と、まったく杯を手にしなかった。 |
| 10月14日 平壌市公設運動場でソ連軍と金日成を歓迎する大衆集会を開いた。ソ連軍少佐の肩章をつけ、胸にはソ連軍勲章をつけた三十三歳の白面の青年が、民族の英雄金日成将軍として、初めて民衆の前に登場したのである。 |
| 11月3日朝鮮民主党結成の日は、1929年の光州学生運動の精神を継承すると意思を込めて、十一月三日と_晩植(チョマンシク)は決意した。三大綱領として、民族の独立と南北の統一、民主主義の確立を掲げた。朝鮮民主党が結成されると北朝鮮民衆は熱狂的に呼応した。党員数は朝鮮民主党自身の集計では五十五万人に、金日成が述べるところでは三十万人に達する勢いだった。 |
| 12月28日 朝鮮民族の運命に多大の影響を与えることになる一通の文書が採択された。モスクワに米.英.ソ三国外相が集まり、「朝鮮問題に関する決定」(モスクワ協定)が発表されたのである。ことに信託統治条項は反発を生んだ。朝鮮民主党委員長._晩植が「モスクワ協定」反対の急先鋒に立った。 |
1946年.昭和21年========
| 1月5日 平安南道人民政治委員会の会議室でソ連占領軍司令部の幹部全員と平安南道人民政治委員会委員との間の最後の交渉が行われた。_晩植は高麗ホテルに閉じこめられた。外部との連絡を完全に遮断され、軟禁状態となった。その後の曹晩植は軟禁状態さえ許されず、平壌刑務所に収監された。 |
| 1月6日 _晩植(チョマンシク)を軟禁。空席となった党委員長のポストには、康良_(カンヤンウク)牧師を一時的に座らせた。彼は金日成の母方の遠い親戚で、温厚なだけが取り柄という人物だった。 |
| 2月8日 北朝鮮臨時人民委員会(翌47年に北朝鮮人民委員会に改称)が発足、委員長に金日成が就任 |
| 3月 金日成に対する手榴弾テロ未遂事件が平壌駅前集会で起こった。ソ連占領軍司令部の幹部と北朝鮮臨時人民委員会幹部がすべて顔をそろえたこの集会の最中に、演壇に向かって手榴弾が投げつけられた。集会警備にあたっていたノビチェンコ少尉がその手榴弾を拾い上げ、投げ返そうとしたとたんに爆発した。 |
| 会場で手榴弾を投げつけたのは、北に渡ってきた金亨集(キムヒョンジブ)という十八歳の少年だったのである。彼は大韓民国臨時政府幹部.申翼煕(シンイツキ)が組織した白衣社という秘密結社の行動隊員だった。申翼煕は45年12月末に中国からソウルに帰還すると、臨政幹部の支援を受けて白衣社という反共右派秘密結社を結成した。この白衣社の行動隊員三人が金日成を暗殺の標的として平壌に潜入し、決行したのである。金亨集は後に逮捕され、さんざんに拷問を受けてからシベリア流刑となったが、のちにその地で処刑されたという。金日成暗殺に失敗した白衣社の行動隊員たちは、満州派(パルチザン派)の中心人物である崔庸健と金策の自宅にも爆弾を投げつけたが、成功しなかった。しかし、朝鮮民主党委員長だった康良_牧師の自宅に投げた爆弾はその場で爆発し、牧師の息子と娘の命を奪った。 |
| 7月20日ごろ スターリンが金日成をモスクワに呼び、金日成を最高指導者と決定する。 |
| *この年、北朝鮮臨時人民委員会の要員を養成する目的で、三ヶ月課程の中央政治幹部学校を、警察要員の要請目的で北朝鮮保安幹部学校を、党要員養成目的の中央学校などが設立された。これらの学校では金日成こそ民族解放の英雄であり、李承晩と金九はニセの独立運動家であり、朝鮮半島は金日成によって統一されねばならないという思想教育に比重をおいた。 |
| これらの学校で金日成の偶像化教育のための教材を検討してみると、興味ある事実が浮かび上がってくる。「噂によれば金日成将軍は五十歳を過ぎたとか、中国の蒋介石と友人だとかの話があるが、それらはすべて虚偽で、われわれの委員長金日成将軍が真の金日成将軍である」という件がそれである。北朝鮮民衆どころか行政府と党で働く要員さえ、金日成の正体について疑いを持っていたことはここからもうかがえる。 |
1947年.昭和22年========
| 11月14日 国連総会で「国連監視下で南北朝鮮の総選挙の実施」を可決。ソ連拒否。*この年 金正日の弟シューラが自宅庭の池で溺死した。 |
1948年.昭和23年========
| 2月 人民解放軍を「朝鮮人民軍」と改称、朝鮮人民軍が正式発足9月9日 朝鮮民主主義人民共和国が建国(大韓民国はこれより前の8月15日に建国)、金日成首相就任初代ソ連大使スチコフ上将の役割については、レベジェフ政治司令官の次のような回想がすべてを語っているように思われる。「新しい朝鮮を建設するために朝鮮の友人たちに直接的な援助をしたソ連人、党と国家の活動で個人的に豊かな経験を朝鮮の同志に伝えてくれたソ連人を挙げるとしたら、私は誰よりもまずスチコフ上将を数えよう。彼が朝鮮にいても、第一方面軍司令部にいても、またモスクワにいても、ともかく彼の関与なしには当時の北朝鮮ではいかなる措置もとれなかった。」ヘルシンキにフィンランド共産党創設者でコミンテルンの執行委員会書記のクーシネンを首班とする傀儡政権.フィンランド民主共和国政府を樹立させた。この過程でスチコフ上将が深く関わった。この経験は北朝鮮に親ソ衛星国を成立させるのに役立ったはずである。 |
1949年.昭和24年========
| 6月 北朝鮮 祖国統一民主主義戦線が結成された。この祖国戦線の結成大会で中央役員(約百人)のポストに闘争経歴も指導力の面でも格段に見劣りする韓徳銖(ハンドクス)がただ一人日本から抜擢された。日本共産党の役職についている在日朝鮮人幹部はすべて排除された。 |
| 6月30日 南北の労働党が合同し朝鮮労働党発足、委員長に金日成が就任 |
| 8月29日 ソ連が原爆実験に成功9月 日本朝鮮人連盟とその青年組織はマッカーサーによって解散させられた。 |
| 9月22日 金正日の実母.金正淑が死去 |
| 10月1日 中華人民共和国が建国 |
1950年.昭和25年========
| 6月 日本共産党はマッカーサーの命令によって全中央委員24人が公職追放された。平和革命の可能性をめぐり党内は分裂し、徳田球一書記長は、のち中国にわたり"北京機関"を作り、そこから日本の活動を指導した。 |
| 6月25日 朝鮮人民軍が北緯38度線を突破、南侵を開始(朝鮮戦争が始まる) |
| 9月 国連軍が反撃開始、北朝鮮劣勢に。 |
| 10月初旬 国連軍が平壌に迫り、北朝鮮軍が鴨緑江まで後退を余儀なくされる直前に、_晩植は収監されていた民族派の人々とともに銃殺された。 |
| 10月25日 中国の義勇軍が公式参戦(この結果、劣勢になっていた北朝鮮軍が38度線まで押し返す) |
1951年.昭和26年========
| 1月9日 在日朝鮮統一民主戦線(略称民戦)が非公然のうちに結成された。これより4年間朝鮮総連に改組されるまで、左翼側在日朝鮮人のすべての運動をになう、民戦を指導したのが日本共産党民族対策部。 |
1953年.昭和28年========
| 2月 北朝鮮は在日朝鮮人のことを「朝鮮民主主義人民共和国の公民である」と主張し始める。 |
| 3月5日 スターリン死去 |
| 7月27日 板門店で休戦協定調印(朝鮮戦争終結) |
| 8月 朝鮮労働党中央委員会総会で、朴憲永を中心とする「南朝鮮労働党派」が大量粛清される。 |
| 11月 民戦は日本共産党のかかげる「三反闘争」、反米、反吉田(当時の首相)反再軍備に反李承晩(イスンマン)を加えて「反四闘争」を大会で決定した。 |
1954年.昭和29年========
| 2月 日本共産党中央は朝鮮南半部の独裁体制とたたかうことは「民族的偏向」としりぞけ、民戦中央委員会で「三反闘争」にもどさせた。この決定が在日朝鮮人の民族感情を大きく傷つけた。当時韓徳銖(ハンドクス)は「日本革命に従属するのでなく、祖国に直結しよう」と呼びかけていた。朝鮮戦争のころ日本共産党の極左冒険主義によって在日朝鮮人運動は大きな打撃をうけていた。火炎ビンを投げて暴れ、若い優秀な活動家がつぎつぎに日本の官憲に逮捕、投獄された。一家の大黒柱が投獄された家族の状態は惨憺たるものであった。 |
| 8月30日 北朝鮮の南日(ナムイル)外相より平壌放送にて「朝鮮民主主義人民共和国政府は日本政府にたいして、日本に居住する朝鮮人の朝鮮民主主義人民共和国公民としての正当な権利を認めるよう要求する。」と一段と格上げした形で政府声明がうちだされた。これによって在日朝鮮人運動の路線転換がはじまる。 |
| 10月 中国紅十字会(中国の赤十字社)の李徳全(リートーチワン)女史を団長とする一行が来日した。在日中国人へ中国共産党の方針を伝える形をとりながら、在日朝鮮人向けに「在日朝鮮人の共産主義者が日本共産党に籍をおき、日本革命推進のために活動するなどとは内政干渉の最たるものである。」とのべた。当時日本共産党主流派の多くは中国に亡命中だった。 |
| 11月3日 党中央委員会で「農業共同化」計画が決定 |
1955年.昭和30年========
| 3月 日本共産党は、在日同胞は日本革命とその目的がちがってくるから、党籍を離脱する。在日同胞は日本の革命闘争に直接参加する必要もない、又してはならないと決定する。在日朝鮮人党員はこの決定にそって一人残らず日本共産党から離脱した。 |
| 5月24日 民戦(在日朝鮮統一民主戦線)第六回大会で解散、翌25日、在日朝鮮人総連合会(総連)結成、韓徳銖(ハンドクス)は5人の議長団の一人におさまる。 |
1956年.昭和31年========
| 2月25日 ソ連のフルシチョフが「スターリン批判」演説4月 朴恩哲(パクウンチョル)はピョンヤンに召喚される。60年代の末に「反党反革命の謀議で在日関係者二十数人と伴に逮捕連行され、全員が行方不明になった。朴(パク)は元日本共産党民族対策部の責任者だった。 |
| 8月 スターリン批判とともに台頭した反金日成派の幹部を大量粛清(金日成がほぼ全実権を掌握) |
1958年.昭和33年========
| 8月 韓徳銖(ハンドクス)は自分の出身母体である朝鮮総連神奈川県川崎支部中留分会の一会員に、金日成あての手紙を書かせた。「日本での貧困と差別の生活をうちきって発展する社会主義祖国に帰ってしあわせな生活をおくりたい。」という内容だった。 |
| 9月8日 北朝鮮建国十周年記念大会で、金日成は「共和国政府は在日同胞が祖国に帰り新しい生活をいとなめるようすべての条件を保障するでしょう」という声明を発表した。このころ韓国政府は在日朝鮮人を棄民視していた。「地上の楽園」の虚偽宣伝が総連、一部日本のマスコミによって行なわれる。そして自民党から共産党までの最高幹部を包括する「在日朝鮮人帰国協力会」が結成された。 |
1959年.昭和34年========
| 2月 岸信介総理のもとで「人徳主義の立場から帰還を許可する」という閣議了承がなされた。 |
| 3月8日 千里馬作業班運動の開始。 |
| 8月 日本と北朝鮮の赤十字社の間で「在日朝鮮人帰還協定」が結ばれた。乗船までの費用を日本政府が負担し、帰国船の配船と帰国後の生活を北朝鮮政府が保障するというものであった。 |
| 9月30日 毛沢東.フルシチョフ会談決裂(中ソ対立へ) |
| 12月14日 新潟から第一次帰国船が出港した。 |
北朝鮮帰還者数年帰還者数累計
| 1959 |
2,942 |
2,942 |
| 1960 |
49,036 |
51,978 |
| 1961 |
22,801 |
74,779 |
| 1962 |
3,497 |
78,276 |
| 1963 |
2,567 |
80,843 |
| 1964 |
1,822 |
82,665 |
| 1965 |
2,255 |
84,920 |
| 1966 |
1,860 |
86,780 |
| 1967 |
1,831 |
88,611 |
| 1971 |
1,318 |
89,929 |
| 1972 |
1,003 |
90,932 |
| 1973 |
704 |
91,636 |
| 1974 |
479 |
92,115 |
| 1975 |
379 |
92,494 |
| 1976 |
256 |
92,750 |
| 1977 |
180 |
92,930 |
| 1978 |
150 |
93,080 |
| 1979 |
126 |
93,206 |
| 1980 |
40 |
93,246 |
| 1981 |
38 |
93,284 |
| 1982 |
26 |
93,310 |
| 1983 |
0 |
93,310 |
| 1984 |
30 |
93,340 |
| 1985 |
0 |
93,340 |
| 1986 |
0 |
93,340 |
| 1987 |
1 |
93,341 |
| 1988 |
2 |
93,343 |
| 1989 |
3 |
93,346 |
| 1990 |
0 |
93,346 |
1961年.昭和36年=======
| 5月16日 韓国で軍事クーデター(朴正煕政権誕生) |
1963年.昭和38年========
| 5月11日 石川県で寺越武志と叔父2人が船で漁に出て行方不明になる。翌朝その漁船は無人のままで漂流しているところを発見される。(清津港に着く) |
1966年.昭和41年========
| 10月 金昌満福首相ら「中国派」幹部が失脚(この頃から朝中関係が対立) |
1967年.昭和42年========
1968年.昭和43年========
| 1月21日 北朝鮮武装ゲリラ隊31名、ソウル青瓦台襲撃を試み失敗(青瓦台襲撃事件) |
| 11月4日 武装ゲリラ約120名を韓国東海岸に投入するが、掃討され失敗(この結果、軍幹部が粛清) |
1969年.昭和44年========
| 中ソ国境で武力衝突12月 大韓航空機を北朝鮮工作員が平壌にハイジャク。乗員乗客51名中12名が未帰還 |
1970年.昭和45年========
| 3月31日 朝7時30分羽田発福岡行日航機「よど号」富士山上空でハイジャックされる。13時59分、福岡から飛び立つが韓国、金浦空港へ偽装着陸させられ、長い膠着状態に入る。 |
| (4月)2日の午前3時20分北朝鮮受け入れの意思表示。 |
| 3日乗客ら103人解放。身代わりの人質として山村新冶郎運輸政務次官がただ一人乗り込む。午後7時20分、北朝鮮の旧日本軍飛行場跡地へ着陸。 |
| よど号ハイジャック赤軍メンバー、( )内は当時の年齢、妻たちは他の資料からの推定。
| メンバー |
後の妻たち |
| 田宮高麿 (27)リーダー |
森順子 (17) (よりこ) |
| 小西隆裕 (25)サブリーダー |
福井タカ子(25) |
| 岡本武 (24) |
福留貴美子(17) |
| 赤木志郎 (22) |
金子恵美子(15) |
| 若林盛亮 (23) |
黒田佐喜子(16) |
| 安部公博 (22) |
魚本民子 (18) |
| 田中義三 (21) |
水谷協子 (14) |
| 吉田金太郎(20) |
-- |
| 柴田泰弘 (16) |
八尾恵 (14) |
| 下記は人質であった方々 |
| 機長、石田真二(47) 山本新治郎(36) |
|
| 4月 中国の周恩来首相訪朝、「朝中共同声明」で日本を「軍国主義」と非難、朝中関係は修復へ |
1971年 昭和46年========
| 2月26日 奥平剛士(おくだいらつよし/当時26歳/京大)はパレスチナへ旅立った。 |
| その2日後の28日、重信房子(当時25歳/明治大/2月2日、同志の奥平剛士と結婚入籍したためパスポートは奥平房子となっている)があとを追った。レバノンのベイルートに着いた2人は、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)の庇護と支援を得て海外赤軍派をつくった。 |
1972年.昭和47年========
| 2月 あさま山荘事件、連合赤軍の同士の粛清と虐殺が明らかになる。 |
| 2月 アメリカのニクソン大統領が中国を訪問した。 |
| 5月1日 北朝鮮でよど号ハイジャック犯人たち8人(未成年の柴田を除く)日本人記者団と会見。「チュチェ思想の賛美を語る」。 |
| 5月6日 金日成、よど号グループの宿舎で彼らと謁見。 |
| 5月30日 テルアビブ空港襲撃事件、赤軍グループ3人のコマンド、2人は自爆、岡本公三は捕虜となる。彼は岡本武の実の弟。 |
| 12月27日 社会主義憲法施行により、金日成が公式に国家の全権を掌握する国家主席(元首)に就任 |
1973年.昭和48年========
| 金正日が朝鮮労働党の対南工作担当部署の三号庁舎を自分の指導下に置こうとして、大検閲事業を始めた。それ以前になされた対南工作活動を全部点検し、工作活動、工作員教育の中身はゼロであり、これからは私が直接それを掌握してやるんだと発言した。 |
| 2月 金正日が責任者となって「三大革命小組」発動 |
| 6月 辛光洙(シンガンス)石川県穴水町より、日本に潜入、この地区の北朝鮮工作船支援の容疑で公安の監視対象者の孫が、オウムの林泰男。祖母が北朝鮮出身。 |
| 6月23日 金日成、朴政権に対し「高麗連邦共和国」を提案。 |
| 8月8日 東京で金大中氏拉致事件、金大中氏が日本を出国するまでの数日間、監禁されていた神戸市の高級マンションの一階上にはグリコの江崎勝久一家が住んでいた。 |
| 9月 党中央委総会で「三大革命」の遂行を決議。このとき金正日を金日成の後継者として容認 |
1974年.昭和49年========
| 6月19日 在日韓国人の民族差別による解雇無効、日立就職差別裁判闘争は勝利判決―原告側主張ほぼ全面的に認める。日立控訴せず確定判決となる。 |
| 8月15日 ソウルで文世光(ムンセガン)事件北朝鮮に抱き込まれた在日韓国人が朴大統領を狙ったが夫人が射殺された。拳銃は大阪の交番で盗まれたもの。国会で木村外務大臣は「北朝鮮の脅威はない」と答弁し、日韓関係悪化、韓国の日本大使館に大がかりなデモ。 |
| 9月13日 日本赤軍によるハーグ事件西川純・奥平純三・和光晴生の3人が、オランダ・ハーグのフランス大使館を占拠し、フランス当局に拘禁中の日本赤軍メンバーの釈放を要求した。犯人グループは、釈放されたメンバー及びオランダに提供させた現金30万米ドルとともに飛行機でダマスカスに向かい、シリア当局に投降した。 |
| 11月 北朝鮮による、非武装地帯のトンネル事件。 |
1975年.昭和50年========
| 4月 サイゴン陥落、ベトナム戦争終了。 |
| 8月4日 日本赤軍によるクアラルンプール事件 奥平純三・F・和光晴生ら5人がマレーシア・クアラルンプールの米国大使館等を占拠し、米国領事らの人質と交換に、ストックホルム事件により我が国で在監・勾留中の日本赤軍メンバー、西川純・戸平和夫等の釈放を要求した。犯人グループは、同人らのほか、「共産同赤軍派」の松田久、「連合赤軍」の坂東國男、「東アジア反日武装戦線」の佐々木規夫の五人を釈放させ、日航機でマレイシアに移送させた後、同機でトリポリ空港に向かい、リビア当局に投降した。 |
| 10月19日 福井タカ子(29)よど号事件以前より小西隆裕とは恋人関係、日本出国後、ギリシャ、イタリア、ベオグラード、モスクワ、を経て、11月頃よど号グループの宿舎へ入る。 |
1970年台後半 ========
1976年.昭和51年========
| 6月13日 黒田佐喜子が日本から出国する。彼女はチュチェ研の幹部活動家。 |
| 7月中旬 福留貴美子(よど号犯岡本武の妻)が羽田から出国した。「モンゴル一人旅をしたい」と友人に語っていた。 |
| 8月 福留家に国内から暑中見舞い届くが、住所等記載無し。 |
| 8月 板門店ポプラ事件起きる。米軍兵士二人が北朝鮮の兵士に殺される。その後北朝鮮軍の戦力の集中が確認される。事件の三日後ぐらいに、米軍のB-52爆撃機一機が北朝鮮に向かって強力な電波妨害を開始、北朝鮮の迎撃戦闘機も防空レーダーも機能がマヒした。B-52は数分後、反転し帰還。事件後7日目、金日成が米軍に対して「遺憾の意」を表明してきた。 |
| 10月7日 魚本民子が羽田よりメキシコへ出国し、北欧、モスクワ、を経てピョンヤンへ入る。彼女は新左翼党派の活動家である。 |
| 10月15日〜22日 デンマーク、ノルウェー、フィンランド、スウェーデン、の各国は免税品転売、麻薬密売にかかわった、北朝鮮外交官の国外退去処分を決定する。この事件以来、ヨーロッパ各国の北朝鮮大使館員と工作エージェントは各国当局と情報機関の厳しい監視下に置かれた。 |
| 11月11日 訪朝中の小田実が8人の「よど号」メンバーに会う。帰国後、20日に朝鮮総聯(そうれん)本部で記者会見、その後毎日新聞のインタビューを受け、欠席していたのは田宮、面会場所が薄暗くて写真撮影は無理だった。吉田金太郎の写真、記事は無かった。
|
1977年.昭和52年========
| 1月25日 金子恵美子が羽田より出国する。彼女はチュチェ研の幹部。 |
| 2月24日 八尾恵(よど号犯柴田泰弘の妻)が伊丹から香港へ出国する。彼女はチュチェ研の会に参加した事があっただけだった。 |
| 3月29日 水谷協子が羽田から香港へ出国する。彼女は朝鮮文化研究会のメンバー。 |
| 3月30日 森順子が羽田から香港へ出国する。彼女の父親は在日朝鮮人。 |
| 5月初めまでによど号メンバー全員結婚、この結婚の仲人役は金正日である。 |
| 7月 フランス在住ピアニスト、白建宇一家拉致未遂8月 韓国全羅南道紅島から高校生、李_校(イーメンギョ)崔承民(チェスンミン)失踪* |
| 1997年11月に逮捕された夫婦スパイ事件の崔工作員の供述で平壌市龍城区域の「以南化環境館」で韓国事情や言葉使いの教官をしていることがわかった。(97年12月10日産経新聞) |
| 9月28日 日本赤軍によるダッカ事件D・西川純・坂東國男・佐々木規夫ら五人が、インドのボンベイ上空で日航機をハイジャックし、バングラデシュのダッカ空港に着陸させ、乗員乗客151人の人質と交換に、我が国で在監、勾留中の日本赤軍メンバー等の釈放を要求した。犯人グループは、奥平純三・城崎勉・大道寺あや子・浴田由紀子・E・仁平映の六人と現金600万米ドルをダッカに移送させた後、アルジェリアに逃亡し、同国当局に投降した。 |
| 9月19日 石川県で久米裕さん拉致される。(久米裕失踪事件=「宇出津事件」) |
| 11月15日 新潟県で横田めぐみさん拉致される (横田めぐみ失踪事件) 。父親が日銀の行員であり、営利誘拐の可能性から、新潟県警始まって以来のヘリコプターを使う大捜査になったが、全く手掛かりは無かった。 |
1978年.昭和53年========
| 1月 韓国人女優、崔銀姫(チェウニ)、香港で拉致 |
| 6月 田中実(29)、成田からウィーンに向かって消息を絶つ(神戸東灘区のラーメン屋店員で、店主の韓某に誘われる)。 |
| 6月 東京都で田口八重子(のちの金賢姫教育係、李恩恵)失踪7月7日福井県小浜市で地村保志さん(23)と浜本富貴恵さん(23)がアベックで拉致される。彼らは一週間前に結納を済ませ、11月には結婚する予定で、式場の予約まで入れていた。近くの山の上にある小浜公園から、保志の運転していた軽四輪トラックが見つかった。トラックは、展望台に駐車したままになっていた。7月31日新潟県柏崎市で蓮池薫さん(20)と奥土祐木子さん(22)がアベックで拉致される。中央大学法学部三年の蓮池薫は、夏休みで帰省中だった。夕方、「夕食は家で食べる」と祖母に言い残し、Tシャツと半ズボンに草履をつっかけて自転車で家を出ている。一方、カネボウの美容指導員奥土祐木子は、勤めていた薬局の奥さんに笑顔を見せて、「蓮池さんと六時に図書館で会って、お茶を飲んで八時までに帰ります」と外出した。 |
| 7月 韓国の監督、申相玉(シンサンオク)、香港で拉致7月 ベイルートの「YWCA秘書学院」に、「日立の」秘書を募集するために、二人の日本人を名乗る男性がやってきた。 |
| 7月 (週刊誌上で---bbr)栗栖統幕議長が奇襲対処において超法規発言をした。7月25日、金丸信防衛庁長官は、同議長を解任した。当時の内閣は福田内閣だった。 |
| 8月 北朝鮮によるレバノン女性4人拉致事件。 |
| 8月12日 鹿児島県吹上浜で市川修一さん(23)と増元るみ子さん(24)がアベックで拉致される。電電公社勤務の修一は恋人のるみ子を車に乗せてでかけ、そのまま二人とも帰ってこなかった。車内にあったカメラのフィルムには、その日のデート中にお互いを撮り合った、楽しそうな二人の写真がおさめられている。他に残されたものは、近くの砂浜にころがっていた修一のサンダルだけである。 |
| 8月15日 富山県でアベック拉致未遂事件。 |
| 8月 韓国西海岸(群山沖)から高校生、金英男(キムヨンナム)、韓国木浦沖から高校生、李明雨(イーションウ)と洪建杓(ホンコンピョ)が失踪する。 |
| 11月27日 八尾恵が長女黎(れい)を出産。 |
| ●この年北朝鮮の金正日が指示し、韓国の女優崔銀姫(チェウニ)さんと監督の申相玉(シンサンオク)さんが、香港にて拉致された。 |
4月 レバノンで女性二人がユーゴスラビアから「日本で元気に暮らしているから心配しないでほしい」とレバノンの家族に電話する。
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1979年.昭和54年========
| 4月 レバノンの女性二人がユーゴスラビアから「日本で元気に暮らしているから心配しないでほしい」とレバノンの家族に電話する。 |
| 6月 レバノン地元紙日本の有名企業(日立)が秘書に募集した四人の女性が旅立った後、消息が途絶えた」と報道。 |
| 8月 東ベルリンより福留貴美子の手紙が実家に届く。なぜか4月に結婚した従兄の事が書かれていた。 |
| 8月 レバノン女性二人、ユーゴスラビアのホテルメトロポールにチェックイン後、監視の隙を突いてクエート大使館に逃げ込み、拉致事件はレバノン政府の知るところとなった。(後に大韓航空機爆破の爆弾の受渡しを行ったのがこのホテル) |
| 11月 レバノン政府の強い抗議のすえ、北朝鮮は残る二人をレバノンに返している。レバノン女性の一人シハームは妊娠四ヶ月だった。彼女は北朝鮮に住むアメリカ人から、「『この状態』を解決するため結婚しよう」と言われ、結婚したという。実は拉致被害者たちのうち、彼女は唯一のイスラム教徒だったが、シハームは北朝鮮に帰ってしまった。(その後レバノンは1981年2月に北朝鮮と国交樹立)この年、京都の吉田の実家に小西隆裕の母から一本の電話がかかった。小西の実家では、このとき小西隆裕本人からの手紙を受け取っている。ピョンヤンからのものだった。しかし、吉田の実家に金太郎からの手紙はなかった。吉田金太郎の実家ではその後もピョンヤンにいる彼に対して、何度か手紙を書いている。 |
| 翌1980年の訪朝団にも家族から「よど号」グループの吉田金太郎宛ての手紙が託された。しかし返信はなかった。@この年から「よど号」グループがヨーロッパに本格的に展開しはじめる。 |
1980年.昭和55年========
| 1月7日 産経新聞一面トップ記事「アベック三組ナゾの蒸発昭和53年夏福井、新潟、鹿児島、富山の未遂、外国を発信源とするスパイ連絡用の怪電波が急激に増えたという事実が警察によって確認されている。」と報道。 |
| 1月20日 魚本民子(よど号犯の妻)日本へ一時帰国。3月 福留貴美子、東京、横浜の友人を回って、そして6月には出国した事になっている。 |
| 6月には出国した事になっている。 |
| 5月 韓国光州反政府暴動。 |
| 5月 スペインで北海道出身のIさん、熊本出身のMさんが消息途絶える。 |
| 6月 デンマークで韓国人教授らに対する拉致未遂事件6月 宮崎で原敕晁さんが辛光洙(シンガンス)らにより拉致される、辛は原さんに成り済ます。原敕晁失踪事件(宮崎青島海岸)6月 パリにて田中義三との接線に失敗した水谷協子自殺未遂。 |
| 6月3日 八尾恵が次女燦(あき)を出産。 |
| 8月 水谷協子日本に帰国、9月に出国、コペンハーグ迂回後、ピョンヤン入り。 |
| 10月 ピョンヤンにて、日本社会党訪朝団に岡本武が突然訪ねる。 |
1981年 昭和56年========
| 1月28日 朝鮮民主党が朝鮮社会民主党と改称。 |
| 6月 森順子、黒田佐喜子(よど号犯の妻)日本入国7月 北朝鮮で金賢姫(キムヒョンヒ)は李恩恵(リウネ)と一対一の同居生活を送った。83年3月まで続き、金賢姫はカップラーメンを初めて見た。 |
| 10月11日 金日成、PLО議長アラファト訪朝に際し朝鮮英雄称号授与。 |
1982年.昭和57年========
| 1月 岡本武(よど号犯)からの年賀状(これが最後になる) |
| 2月 警察庁の資料によると、八尾恵が海外旅行中の1982年2月、デンマークのコペンハーゲンで、当時ユーゴスラビアのザグレブにあった北朝鮮領事館副領事のキム・ユーチョルと接触していた「事実」や、不審な複数の日本人女性との接触、東欧、東ベルリンなどへの出入国記録などが含まれていた。逮捕令状はアパートの名義に偽名がもちいられていることで「有印私文書偽造同行使」の容疑があてられた。1988年5月25日の早朝、「佐藤恵子」すなわち八尾恵は、神奈川県警外事課に逮捕された。 |
| 3月 デンマークにて、情報機関によって岡本武、森順子、撮影される。(このころ魚本、森、黒田、金子、福井、日本入国を繰り返していく。) |
| 4月 有本恵子は神戸市立外国語大学英米科二部を卒業すると一年半の予定でロンドンへ語学留学をした。ホームステイ先で二人の子供のオーペア(子守)をしながら、午後はインターナショナル・ハウスで英語を学んでいた。 |
| 4月15日 金日成誕生70周年の祝賀行事で辛光洙(シンガンス)はトップクラスの勲章である「国旗勲章一級」を授与されている。 |
| ■このころ、横田めぐみちゃんが帰ってきたが精神的な均衡を崩しており、ある病院に入院している。という噂が新潟で流れる。 |
1983年.昭和58年========
| 6月 金正日が中国を非公式訪問(中国共産党幹部を前に演説。このときの発言について帰国後、金日成から叱責される) |
| 7月16日 コペンハーゲンで有本恵子が失踪、コペンハーゲン空港で北朝鮮工作員キムコーチョルと有本恵子さんが撮影される。二人はその後モスクワヘ飛び立つ。 |
| 10月9日 アウンサン廟爆破事件1・2(ラングーン事件)、韓国閣僚ら21人爆殺、全斗煥大統領は難を逃れる。(11月ビルマ、北朝鮮と断交) |
| 10月 有本恵子さん本人の筆跡で、デンマークの季節感が不自然な内容の郵便が神戸の実家に届く、それより音信が途絶える。 |
| 11月 第18富士山丸に潜入した北朝鮮の兵士が日本に上陸し、亡命を求める。 |
| 11月 北朝鮮が第18富士山丸の船員をスパイ容疑で抑留。 |
1984年 昭和59年========
5月8日 金日成、PLО議長アラファトと咸興で会談。
1985年.昭和60年========
| 3月1日「西新井事件」=北朝鮮のスパイ朴某を指名手配。80年6月には小住健蔵名義のパスポートを使用していた。小住健蔵は1961年から行方不明になっている。朴が東京都内のアパートを契約したときの保証人は,宮本明という在日韓国人であった。宮本は蜂谷真一という男性に接近し、外国旅行に誘ってパスポートを取らせている。蜂谷名義のパスポートはその後、あの大韓航空機爆破事件で登場することになる。事件直後にバーレーンで服毒自殺した、北朝鮮工作員、金勝一が使ったパスポートが蜂谷真一名義であり、その娘、蜂谷真由美と名乗って一緒に行動したのが金賢姫だった。 |
| 3月 よど号ハイジャックグループ柴田泰弘がIさんの数番違いのパスポートを取得。 |
| 4月 辛光洙(シンガンス)、韓国で逮捕 |
| 6月28日 韓国安企部は北朝鮮の工作員辛光洙(シンガンス)ら四人の逮捕を発表。(原敕晁さん拉致事件明るみになる。) |
| 8月 京都市祇園の吉田金太郎の実家では、ピョンヤンからの金太郎の異変を知らせる一通の手紙を受け取っていた。差出人は田宮高麿だった。 |
| 9月中旬になって、田宮高麿から死亡の知らせの手紙が届く。 |
| 8月21日 北朝鮮で朴春仙(パクチュンソン)さんの、兄朴安複(パクアンボク)さんは銃殺刑に処せられた。(朴春仙さんは辛光洙(シンガンス)と日本で同居していた) |
| 12月 西独留学中の呉吉男(オキルナム)一家4人が北朝鮮へ(対南工作用のラジオのアナウンサーをさせられ、86年11月に吉男がコペンハーゲンで脱出) |
1986年.昭和61年========
| この年、北朝鮮が核開発を本格的に始動。この頃から、中国国境に近い北朝鮮の北部辺境地域で餓死が始まる。 |
| 3月 北朝鮮に拉致された、韓国の女優崔銀姫(チェウニ)さんと監督申相玉(シンサンオク)さんがウィーンで脱出。 |
| 5月14日 日本赤軍によるジャカルタ事件インドネシア・ジャカルタにおいて、日本、米国両大使館に爆発物が打ち込まれ、また、カナダ大使館前で車が爆破されるという同時テロ事件が発生した。この事件では、「反帝国主義国際旅団」名の犯行声明が出されているが、日米捜査当局は、城崎勉を犯人の一人と断定し、国際手配した。 |
1987年.昭和62年========
| 寺越武志と叔父の外雄から「北朝鮮にいる」と手紙。友枝さんが北朝鮮へ |
| 1月22日 寺越外雄から姉の栗原豊子宛に北朝鮮で生きていることを知らせる手紙が届いた。「突然、北朝鮮で生活することになった。こちらで家族も持ち、幸福に暮らしている」昭二はすでになくなり、武志と外雄は結婚して子供もでき、平壌北方の亀城(クソン)市に住んでいた。地元選出で日本社会党の島崎譲代議士(当時)が北朝鮮とのパイプ役となり、その年九月三日に武志の両親は平壌を訪問、親子は二十四年ぶりの再会を果たした。 |
| 6月9日 日本赤軍によるローマ事件。ベネチア・サミット開催中の6月9日、イタリアのローマにおいて、米国、英国両大使館に向け爆発物が発射されるなどのテロ事件が発生した。この事件では、「反帝国主義国際旅団」名の犯行声明が出されているが、イタリア当局は、奥平純三らを犯人と断定し、国際手配した。 |
| 11月 ビルマ沖で大韓航空機爆破事件、金賢姫自殺未遂後逮捕。(日本語教育係の李恩恵が子供を日本に残している事等自供。) |
1988年.昭和63年========
| 1月22日 神奈川県警外事課のデスクに一本の密告電話があった。(八尾恵について) |
| 2月 参議員秘書兵本達吉氏新潟、福井、鹿児島と失踪カップルの調査をする。 |
| 3月26日 橋本参議員(共)連続アベック失踪、李恩恵レバノンまで拉致疑惑を全面的に取り上げる。梶山静六国家公安委員長(当時)「北朝鮮の疑いが濃厚」と答弁。 |
| 4月14日 日本赤軍によるナポリ事件イタリア・ナポリにおいて、米軍クラブ前に駐車中の車が爆破され、米軍人1人を含む5人が死亡するテロ事件が発生した。この事件では、「聖戦旅団機構」名の犯行声明が出されているが、イタリア当局は奥平純三及び奥平(重信)房子を犯人と断定し、国際手配した。また、米国当局も、この事件に関し、奥平純三を国際手配した。 |
| 5月6日 柴田康弘(よど号犯)日本国内に潜入中逮捕。 |
| 5月25日八尾恵は、神奈川県警に逮捕された。 |
| 1988年8月 『官報』 |
| 9月 Iさんの手紙がポーランドから札幌の実家に届く、今は北朝鮮にいる事、Mさんの存在、有本恵子さんの住所が書かれていた、何故か赤ん坊の写真も同封されていた。 |
| 9月〜10月 ソウルオリンピック成功。 |
| 10月10日 北朝鮮、朝鮮労働党創立記念日に金正日軍事大学で安明進(アンミンジョン)は、横田めぐみさんを見るその後1991年まで数回遇う。 |
1989年.昭和64年.平成元年===
| 7月 第十三回世界青年学生祝典(平壌)。 |
| 11月 ベルリンの壁撤去。 |
1990年.平成2年========
| 1月 訪朝中の高沢浩司に対しよど号グループは、岡本武は朝鮮人と結婚したとうそを吐く。 |
| 5月10日 PLО議長アラファト、訪朝。 |
| 5月 大韓機を爆破した金賢姫に日本語などを教えた「李恩恵」こと田口八重子さんの日本からの拉致に関係ある総聯の大物商工人「安商宅」を警察が家宅捜査しようとしたら前日、捜査打ち切りとなる。圧力をかけたのは金丸信だ。 |
| 9月 金丸信、田辺誠訪朝、金日成と三者会談。 |
1991年.平成3年========
| この年、ソ連崩壊、日本経済バブル崩壊 |
| 1月 「80年代、欧州で男女三人行方不明、北朝鮮.平壌で生活と家族に手紙届く」この事件が新聞.週刊誌に掲載された。 |
| 1月15日 有本さん達に、( 外務省への請願と記者会見は16日)、前夜遅くNHK(山本記者)より電話。『会って欲しい』と言う人がいるとのこと。翌朝早く神戸より田村記者、東京より崎元記者(NHK)、遠藤氏。それに二家族を交え外務省近くで会合。遠藤氏(R書房社長)は「私たちは金丸氏の訪朝のため、1年有半いろいろと努力をしてきました。今ここでこのような(拉致問題)警察よりこんな話が出て来ては何もかもぶっこわしになってしまう。記者会見では住所姓名を言わないようにしていただきたい。そのかわり私達には『金日成』に通じるルートがあります。1〜2ヶ月待って下されば必ずよい返事を持って来ます。」と言う。金丸氏の外交手腕を知っている有本さんはそれを信じ、一旦同意。記者会見は遠藤氏の意にそった結果で終了。記者の中から、「圧力がかかっているのではないか。」との声あり。・・・・じつはこれがズボシだった。数ヶ月が経過、遠藤氏の約束は反故になる。 |
| 1月17日 多国籍軍がイラクへ空爆。 |
| 1991年1月30-31日 日朝国交正常化交渉はじまる。(第1回会談,ピョンヤン) |
| 5月 警視庁は「李恩恵について日本人と断定し拉致の可能性がある」と発表。同庁では、捜査員をソウルに派遣し、金賢姫にT.Yを含む十五人の写真を見せた。七枚目に出された写真に賢姫は迷うことなく「間違いなく李恩恵先生です」とはっきり答えた。金賢姫がすでに供述していた「李恩恵」の本籍、出生地、家族関係、身体特徴、血液型、性格、仕草.癖、趣味、言葉遣い、趣味嗜好、母親の出身地が新潟県の佐渡島であることなど六十を超える項目についてT.Yのものと一致した。たとえば、『仕草.癖』の項目で、人を送るとき、「大きく手を振る」『言葉遣い』では、「やっぱし」「ばかみたい」を多用する。『職業』では「学生時代、食堂でアルバイトした」などといった具合である。 |
| 5月15日 埼玉県警の佐藤正夫警備部長は、記者会見をして、匿名での報道を条件に李恩恵は日本人女性T.Yと判明したとその実名を発表した。さらに、「李恩恵が船で日本から引っ張られたと金賢姫に言っていることから、拉致の可能性も含め、刑事事件として捜査を行う」と述べた。 |
| 9月 韓国.北朝鮮、同時に国連加盟。 | | 12月 ソビエト連邦消滅。 |
1992年.平成4年========
| 1月 北朝鮮、核査察協定に調印する。 |
| 4月 よど号グループより柴田の妻で有る事を公表する事と八尾恵に手紙が届く。 |
| 4月 よど号ハイジャックグループに妻子がいると金日成が朝日新聞記者団に語る。 |
| 4月12日 北朝鮮の金日成主席生誕八〇周年の慶祝行事に参加する自民党訪朝団の団長に指名されていた山村新冶郎衆議院議員は早めに床につくが次女に刺殺される。今回の訪朝で「よど号」事件のリーダーだった田宮高麿と会う予定があることを記者に明かしていた。面会が実現すれば、あの事件から22年ぶりの再会になるはずだった。山村代議士が「よど号」事件のあと「男・山村新冶郎」としてピョンヤンから帰還したとき、羽田空港のタラップの下で彼を迎えた幼い娘がこの次女だった。心神喪失で不起訴(4年後自殺。) |
| 4月25日 軍創設記念日であるこの日、金正日が「英雄的朝鮮人民軍将兵諸君に栄光あれ」と演説(金正日の肉声がメディアに流れたのはこれが初) |
1993年. 平成5年========
| 2月 金丸信、起訴される。 |
| 3月 金正日の長男金正男、ナイトクラブで女性をめぐるトラブルで拳銃を発射する騒ぎを起こす。 |
| 3月北朝鮮、核不拡散条約を脱退。 |
| 5月 ノドン1号発射(能登半島沖に着水) |
| 5月 神戸市の有本家に、兵庫県警外事課の刑事が一枚の写真を持って現れた。この写真は北朝鮮の工作員キム・ユーチョルと有本恵子が一緒に写っていた。 |
| 6月 金丸信宅から出てきた金の延べ棒は北朝鮮からのバックマージンとの話。尚、その金塊は無刻印だった。 |
| 9月 安明進、北朝鮮から韓国へ亡命。 |
| 11月頃 高沢氏はピョンヤンの郊外で「よど号」の「妻」たち全員に」インタビューをすることになった。このとき、インタビューに応じてくれたのは、行方不明の二人を除く「妻」たちの全員、それに合流組の赤木美智子の七人だった。岡本武については何人かの女性たちが口にした。否定的であれ、取り繕った言い方であれ、岡本は彼女たちの中に「存在」していた。しかし、吉田金太郎の名前は彼女たちの誰からも出なかった。 |
1994年.平成6年========
| 2月〜6月 北朝鮮、核査察受入れ後これを停止し、国際原子力機関、対北朝鮮制裁決議 |
| 6月 北朝鮮の核査察拒否で高まった緊張の中、米国カーター元大統領が平壌を訪問、金日成と会談、核開発凍結で合意 |
| 7月 柴田泰弘(よど号犯)刑務所から出所。 |
| 7月6日 金日成が、国内5地域に経済特区を設け、韓国資本を導入、経済再生を図る政策大転換を提唱(いわゆる「七六演説」 |
| 7月8日 金日成死去10月 ジュネーブで「米朝合意」が成立 |
| 11月 福留貴美子の高知の実家に4千万円用意すれば帰国させると大阪弁なまりの電話が一回だけかかる。 |
| 11月4日 同日付「労働新聞」の金正日著名論文「社会主義は科学である」が「七六演説」を完全否定 |
1995年.平成7年========
| 3月 渡部美智雄を団長とする与党訪朝団が平壌訪問 |
| 3月22日 捜査当局がオウム教団施設を捜索した際、麻原個人の金庫から、約七億円の現金とともに十キロの金塊(時価約一千万円)が発見された。この金塊には刻印がなく、再鑑定の結果、93年の脱税事件で金丸事務所から発見された無刻印の金塊とほぼ同一の規格、品質であり、同じ高炉で精錬されたものと分かった。 |
| 4月23日 オウム真理教村井刺殺事件で、村井を刺殺した徐が犯行直前まで住んでいた家の所有者である女性の姉とかつて同居していた相手は、実は北朝鮮の大物スパイ、辛光洙(シンガンス)であった。 |
| 8月 北朝鮮で大水害発生 |
| 10月 日本から50万トンの米を北朝鮮に送る。 |
| 11月 石高健次氏、安明進から市川修一さんの目撃証言を引き出す。石高健次が出した十四枚の写真の中から、市川修一のものを指さして「この男性は平壌で何回も見ました。間違いありません」とはっきり語ったのである。 |
| 11月29日、田宮高麿が「元赤軍派議長」塩見孝也を平壌駅まで見送る。 |
| 11月30日 「よど号」犯人グループのリーダーであった田宮高麿が死亡した。その後は、小西隆裕がリーダーとして組織の運営に当たる。 |
1996年.平成8年========
| 3月 よど号ハイジャック犯田中義三、カンボジアで逮捕、偽ドル疑惑として報道される。 |
| 3月 週刊文春によるとよど号の妻が日本人留学生を平壌に連行した記事が掲載される。そして、魚本民子がヨーロッパに日本人男性を誘い行方不明になっている事も書かれていた。 |
| 8月7日 岡本武の「妻」が失踪していた日本人女性であり、福留貴美子さんであるというニュースは、『朝日新聞』の朝刊で報じられた。 |
8月9日 各紙の紙面に「岡本夫妻、北朝鮮で死亡か?」というものだった。 記事はこんな内容だった。 《元赤軍派メンバーで消息が途絶えていた岡本武容疑者と同容疑者の日本人の妻が約八年前の1988年ごろ、同国内の作業場で死亡していた可能性が強いことが九日、関係者の話で分かった。≫ |
| 9月18日 韓国東岸の沖合で北朝鮮の潜水艦が座礁、上陸した武装ゲリラと韓国軍が交戦10月1日 高世仁氏、安明進に初取材「よど号ハイジャックグループ田中義三を金正日政治軍事大学で見た」と語る。10月 現代コリア10月号(石高リポート)70年代後半13歳の少女が日本から拉致されたと、94年に北朝鮮から韓国に亡命した工作員より情報がもたらされた「バトミントン部の帰りだった、そして朝鮮語を覚えたら母のもとへ帰すといわれたが、18歳の頃それが叶わぬと知ると精神的な均衡を崩し一時入院した事等」。 |
| 12月7日 金正日が金日成総合大学で秘密演説を行い、食糧不足について言及 |
| 12月14日 現代コリア所長佐藤勝巳氏、新潟で講演(石高リポート)を語る、出席していた警官「それは横田めぐみさんの事だ」と指摘。 |
| 12月末 横田めぐみさんの拉致疑惑が、現代コリアのホームページに掲載される。 |
1997年.平成9年========
| 1月 新潟で北朝鮮に拉致された日本人を救出する会発足。(最初に結成された、救う会)1月 兵本達吉氏の説得に3組の失踪カップルの家族、名乗りを上げる事を同意。 |
| 2月には横田家も実名公表を決める。 |
| 1月23日 石高氏横田宅で拉致疑惑を説明。国会では西村真悟衆議員(進.当時)この事件について「北朝鮮工作組織による日本人誘拐.拉致に関する質問主意書」を提出。 |
| 2月3日 産経新聞.アエラ.横田めぐみさん実名で拉致疑惑の記事が掲載される。 |
| 2月4日 ソウルで偽ドル疑惑を安明進に取材中の高世仁氏、空港で前日買った雑誌等に掲載される横田めぐみさんの写真を見せ、目撃証言を引き出す。 |
| 2月12日 黄長_亡命事件発生(4月20日韓国に入る) |
| 2月15日 82年に北朝鮮から韓国へ亡命した、李一男(金正日の前妻の甥)ソウル郊外で銃撃される。(彼は金正日の暴露本を出した) |
| 2月中旬 レバノンで一斉逮捕。レバノン国内に身分を偽って潜伏していた日本赤軍メンバー5人(和光晴生、足立正生、山本萬里子、戸平和夫、岡本公三)が発見され、レバノン当局により身柄を拘束された。その後、5人は旅券偽造、不法入国等の罪で起訴されている。 |
| 3月 ソウルで横田夫妻、安明進と面会。 |
| 3月25日 「北朝鮮による拉致」被害者家族連絡会発足。翌26日には、国会内で記者会見。 |
| 5月 日本政府、「北朝鮮による拉致疑惑」は横田めぐみさんを含む(7件10人)と公式に認める5月 大阪朝銀信用組合倒産8月 北京での日朝局長級会談で日本側は拉致問題を「行方不明者ならどうか」と提案し、会談の決裂を回避した。 |
| 10月 党中央委総会未開催のまま金正日が朝鮮労働党総書記に就任。 |
| 9月 寺越友枝の自宅に地元金沢のテレビ局スタッフが「武志さんがテレビの画面に出てくるから、すぐに局にきてほしい」と車で迎えにきた。放送の直前、彼女は「あまりきついことは言わないように」と局側から釘を刺される。テレビ局が武志のインタビューを放送した九月五日というのは、日本人妻里帰りについての日朝の赤十字連絡協議会が始まる前日だった。 |
| 11月 北朝鮮から日本人妻一時帰国。 |
| 12月 安明進氏、実名と素顔でマスコミに登場。 |
1998年.平成10年========
| 2月 安明進氏、手記に横田めぐみさんにえくぼの特徴と書く、その特徴を知らない高世仁氏は横田家にえくぼの特徴を確認する。 |
| 3月ごろ 北朝鮮全国的に配給停止。 |
| 4月2日 拉致問題でニューヨークタイムズの全面広告で意見広告を出す。 |
| 6月5日 北朝鮮赤十字は「日本が捜している10人は一人も捜し出せなかった」と発表。 |
| 7月〜8月 安明進氏、日本各地で講演する。 |
| 8月末 北朝鮮テポドン発射。 |
| 9月 八尾は、平壌の「よど号」グループのリーダー小西を相手取り、子ども二人を引き渡すよう求める訴えを起こした。この訴えは、 弁護士3人が手を引くほどの過激派の嫌がらせなどがあり99年1月に取り下げられた。 |
| 10月 国際的NGO「国境なき医師団」が「支援物資が住民に届かない」と抗議し、北朝鮮から撤退 |
1999年.平成11年========
| 2月22日 国会で北朝鮮のミサイルに日本製の部品が使われている事を政府否定せず。 |
| 3月 小渕首相、拉致被害者家族と会う。 |
| 3月23日 日本の領海内に北朝鮮の「工作船」が侵入、工作船へ自衛隊威嚇射撃。 |
| 5月2日 日比谷公会堂で「北朝鮮により拉致された日本人の救出を国政の最重要課題にするための国民大集会」に1900人集まる。 |
| 6月15日 黄海で北朝鮮と韓国の艦船間で銃砲撃9月 「横田めぐみさん等被拉致日本人を救出する京都会」発足、名誉会長に今村要道氏。(堀川同窓会会長) |
| 11月20日 京都商工会議所で横田早紀江さん横田めぐみさんの母、堀川高校第6期生)等を招き京都集会開催、140人集まる。12月 村山元首相が団長の超党派議員団訪朝。12月31日 韓国 辛光洙(シンガンス)、恩赦で釈放される。(日本人を拉致して捕まった唯一の工作員。)
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2000年.平成12年========
| よど号犯グループと家族 平成12年度 |
| 田宮高麿(死亡) |
┳ |
森順子(48) |
| 長女、長男、二男 |
| 小西隆裕(55) |
┳ |
福井タカ子(54) |
| 長女、二女 |
| 安部公博(52) | ┳ | 魚本民子(47) |
| 長女、長男、二男 |
| 赤木志郎(52) |
┳ |
金子恵美子(44)
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| 長女 |
| 田中義三(51) タイで逮捕 | ┳ | 水谷協子(43) |
| 長女、二女、三女 |
| 若林盛亮(53) | ┳ | 黒田佐喜子(45) |
| 長男、二男 |
| 岡本武(死亡?) | ┳ | 福留貴美子(死亡?) |
| 長女、二女 |
| 柴田泰弘(46) 日本で逮捕 | ┳ | 八尾恵(44) 日本で逮捕 |
| 長女、二女日本で逮捕 |
| 後に合流したメンバー | ┳ | 妻(46) |
| 長女、二女 |
| 1月 「北朝鮮により拉致された日本人を救出するための地方議員の会」結成。 |
| 3月 米10万トン(38億4千万円分)を北朝鮮に送る事が決定される。それに対して家族会.各地救う会が外務省.自民党本部に対して座り込み抗議を行う。 |
| 4月30日 日比谷公会堂で「横田めぐみさんたちを救出するぞ!国民大集会「」に2000人集まる。 |
| 7月9日 初めての救う会のデモ行進(大阪御堂筋市民デモ)。 |
| 8月1日 「拉致問題に取り組む民社人権会議」結成。 |
| 9月2日【ソウル2日澤田克己】韓国金大中政権により、韓国でスパイ罪などに問われ、政治的転向を拒んできた「非転向長期囚」63人が2日午前10時(日本時間同)、板門店を通って朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に送還された。送還対象者には、日本人男性を拉致し、その男性になりすまして工作活動をしていた辛光洙(シングワンス)・元服役囚(71)が含まれている。 |
| 9月12日 森首相、被害者家族達に「棚上げ調印しない」と言明。 |
| 9月15日 国連は国際社会に対し約20万トンの食料支援を要請した。日本政府は50万トンの米支援を行う。 |
| 10月 森喜朗首相が英国のブレア首相に「第三国発見方式」提案を漏らした問題発覚。 |
| 11月8日 日本赤軍の最高幹部で、数々の国際テロに関与したとされる重信房子容疑者(55)が、大阪府高槻市内に潜伏していたことがわかり、大阪府警警備部は8日、1974年のオランダの仏大使館占拠事件(ハーグ事件)の逮捕監禁容疑で逮捕した。 |
| 11月10日には 重信容疑者が所持していた偽造旅券2通のうち1通は、よど号グループ関係者が使用していた偽造旅券と酷似していた。ダッカ事件の西川純被告(50)=公判中=や坂東国男容疑者(53)=国際手配中=らが偽名を使って使用していた旅券と、北朝鮮に極秘入国していたよど号グループの妻らの旅券は発行年月日が同じで、番号も下1〜3ケタが違うだけだった。公安当局は両グループが同じ偽造団から旅券を入手したとみている事を公表。 |
2001年 平成13年========
| 2月25日 北朝鮮拉致事件の被害者家族達がブッシュ政権の政策担当者や人権団体、そして国連本部などに拉致問題について訴えるためにアメリカへ出発。 |
| 4月25日 横田早紀江さんの「母が子を思う気持ち」を表した歌『めぐみ』がCDリリースされる。 |
| 4月 スイス・ジュネーブで拉致問題について、国連人権委員会の強制的失踪に関する小委員会はこれを取り上げ関係国(北朝鮮及び日本)政府に対して質していくことを決定した。 |
| 5月 金正男の不法入国事件が起こる。北京へ送還。 |
| 5月15日 小西隆裕の長女の立子(当時23歳)、田中義三の長女の東美(あずみ/当時22歳)、故田宮高麿元リーダーの長女の田宮(森)朝香(当時22歳)の3人が「帰国」した。 |
| 8月 エイジプログレッション(経年人相画)のCGで制作された36歳になっている横田めぐみさんが新聞、雑誌等に掲載される。 後日あるルートであれは似ていないと伝わる。本人は....。 |
| 9月10日 警察庁に拉致疑惑の取り調べ要請=「よど号」妻帰国で被害家族。日航機「よど号」事件の元赤軍派メンバーと結婚した赤木恵美子容疑者(46)=旅券法違反容疑などで国際手配=が帰国することを受け、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に拉致された疑いがある日本人の家族ら10人が10日午前、東京.霞ヶ関の警察庁を訪れ、拉致疑惑について赤木容疑者から徹底した事情聴取を行うよう要請した。 |
| 9月18日 赤木恵美子「よど号」妻帰国 |
[出展及び参考資料]
金日成は四人いた(成甲書房)李命英北朝鮮五十年史(朝日新聞社)金学俊[李英訳]
北朝鮮に消えた友と私の物語(文藝春秋)萩原遼
娘を返せ 息子を返せ 北朝鮮拉致事件の真相(旬報社)高世仁
金正日の拉致指令(朝日新聞社)石高健次
それでもシラを切るのか北朝鮮(光文社)石高健次
いま女として・上・下・(文藝春秋)金賢姫
宿命―「よど号」亡命者たちの秘密工作(新潮社)高沢皓司
闇に挑む!(徳間書店)西岡力
めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる(草思社)横田早紀江
北朝鮮拉致工作員(徳間書店)安明進
オウム帝国の正体(新潮社)一橋文哉
闇に消えた怪人 グリコ・森永事件の真相(新潮社)一橋文哉
北朝鮮裏切られた楽土(講談社)張明秀
北朝鮮の「今」がわかる本(三笠書房)佐藤勝巳
救う会(大阪)のパンフレット
民社人権会議の声明
週刊文春(文藝春秋)
警察白書
産経新聞
北朝鮮の最高機密(文藝春秋)康明道
毎日新聞
共同通信 |
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