2002年 6月 17日 月曜日

憂さ晴らし


 アルゼンチンがイングランドに負けたとき、ブエノス・アイレスのある市民がテレビ局のマイクに向かって、「アルゼンチンがつらい目にあっているのはサッカーだけではないんだよ。毎日毎日つらい目に遭い続けだ。でも、サッカーは好きだよ。」と叫んでいた。

 自国チームが「宿敵」イングランドに勝てば「つらい毎日」のいい憂さ晴らしになったのであろうが、それがかなわなかっただけのこと。「つらい毎日」も「サッカー最高!」の元のままである。サッカーの試合が憂さばらしになるときもあれば、ならないときもあるというわけだ。阪神の応援をしてみるとそれが私にもよくわかる。

 石原都知事は、サッカーでロシアに勝てば「北方領土」交渉が日本に有利に進む、それが外交と言うものだ、などと得々と語っていたが、「憂さ晴らし」に「憂さ晴らし」以上のものを求めるのはおろかなこと。

 問題は人々の生活がすっぱりした「憂さ晴らし」を切実に求めていると言うことだ。日本の若者たちの熱狂ぶりと一部の過激な逸脱ぶりをみると、このサッカー・フィーバの背景にある、爆発的な「憂さ晴らし」をもとめさせる深刻な現実を思わざるを得ない。それは暴走族たちの苛立ちに近いものであり、放火犯人の快感に通じるもののような気もする。

 若者の熱狂用の必須グッズになった「日の丸」だが、若者の右傾化に対する私の心配に、ある若い大学教員は「いやあ、そう心配することはないですよ。7月に入ったら若者たちはもう次の興奮を求めて日の丸なんか捨ててしまいますよ」と慰めてくれた。そうであってほしいものだ。ただ、そうなっても残される問題はやっぱりこの「憂さ晴らし」の問題である。