大村市円融寺跡(護国神社)に戊辰戦争の犠牲者の墓碑がある。大村藩は、1886(戊辰・慶応4年=明治元年)の新政府と奥羽列藩同盟との間の内戦に官軍として参戦した(注)。その折の犠牲者の墓標である。この時代あたりが「軍人墓」のルーツかもしれない。
この墓標の一番したの壇(芝石)はコンクリートが使ってあり、後年のもののようだ。
戦死した場所は、奥州、羽州、会津、の三ヶ所である。
同境内にある大村藩勤皇同盟三十七志の碑。上の墓標も本来このような2段造りだったのであろう。
それにしても、軍人墓のルーツがありながらなぜ太平洋戦争の軍人墓を作らなかったのだろう。謎だ。
奥羽列藩同盟については「小学館百科事典」の次の記述を参照
…… 朝敵とされた会津・庄内(しょうない)両藩の降伏謝罪条件について、両藩と新政府との間の斡旋(あっせん)に尽力した仙台・米沢(よねざわ)藩などの努力も失敗し、新政府や奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府参謀に不満・不信を抱いた東北諸藩は、5月奥羽列藩同盟を結成し、やがて北越諸藩もこれに参加して奥羽越列藩同盟となって新政府に抵抗。
1868年(明治1)7月仙台藩領白石(しろいし)に公議府を設け、輪王寺宮(りんのうじのみや)を軍事総督に推戴(すいたい)し、奥羽越諸藩重臣が参加して軍事・民政・会計その他を議定、執行することになる。
これは、奥羽越の地に成立した諸藩連合政権であったが、新政府軍との戦闘に敗れ、同盟諸藩は次々に降伏した。
12月奥羽越諸藩の処分が決定。藩主の幽閉、謹慎、削封、転封、重臣処分、贖罪金(しょくざいきん)賦課などが行われた。
また、8月に徳川方海軍を率いて脱走した榎本武揚(えのもとたけあき)らは、北海道箱館を攻略してこの地に新政権を樹立したが、69年5月五稜郭(ごりょうかく)において新政府軍に降伏し、戊辰戦争は終了する。