愛媛県護国神社の慰霊塔群

2000/3/21

 初めて護国神社の慰霊碑群を訪れた。予想通り、ほとんどの慰霊碑は
昭和40年代以降のものであった。 昭和40年代といえば、日本遺族会
会長を戦犯である賀屋 興宣氏がつとめ、戦争の美化、「英霊」の顕彰を
推し進めていた頃である。護国神社の慰霊碑建立と戦前思想復活運動
との関連を探るために「年表」の一部に 各慰霊碑の建立時期(年月日
の欄の背景を赤にしている
)を加えてみた。

年表

1945(昭和20)年 大日本帝国崩壊
1945(昭和20)年 11月24日、GHQが覚書「恩給および恵与」を発す。
1946(昭和21)年 2月、日本政府はGHQの覚書に沿って、勅令第68号を発して、軍軍人・軍属の恩給、遺族に対する公務扶助料を停止した。
1949(昭和24)年 2月10日、遺族厚生連盟『会報』第一号発刊。「会報」という題字の下には連盟規約第四条が兵庫として掲げられた。
第四条
 本連盟は会員の相互扶助、慰藉救済の道を開き道義の高揚、品性の涵養につとめ、平和日本の建設に邁進すると共に、戦争の防止と、世界恒久の平和の確立を期して全人類の福祉に貢献することを目的とする。
1949(昭和24)年 5月14日、衆議院が「遺族援護に関する決議」を全会一致で採択。5月14日、参議院が「未亡人並びに戦没者遺族の福祉に関する決議」を全会一致で採択。

衆議院の決議の要旨の一節に次のようにある

(前略)戦争に出たのは多くは国家の強制による公務である。政府は改めてここに、この事実を確認するとともに、速やかに遺族に対する(中略)援護策を樹立し(後略)
1951(昭和26) 2月23日、東京で開催された「第一回全国遺族代表者大会」の宣言から…
 「戦争最大の犠牲者は、我々遺族である。我々の肉親は、国家の公務によってたおれたのである。国家は遺族に対し、当然補償を成すべきである。…中略…
 我々八百万の遺族は今日ここに蹶然起って、二百万戦没者の霊に誓って飽くまで要求の貫徹を期する。」
1951(昭和26)年 9月、サンフランシスコ講和会議で対日平和条約調印。10月18日、吉田茂首相、衆参両院議長、閣僚が戦後はじめて「宗教法人靖国神社」に参拝。もどる
1951(昭和26)年 10月26日、閣議で「戦病者戦没者遺族等援護法」案を決定。弔慰金は一人につき5万円。
1951(昭和26)年 11月22日、第2回全国戦没者遺族大会

宣言の改変

第1回大会の宣言が

  1. 遺族は戦争最大の犠牲者で、
  2. 肉親は国家の強制による公務によってたおれた、
  3. したがって国家は遺族に当然補償すべきだ。
となっていたのに対し、第2回大会では、
  1. 遺族は戦争最大の犠牲者で、
  2. 我々の肉親は国家民族のためにたおれたのであります。
  3. したがって国家は遺族に当然補償すべきだ。

 と戦死にたいする積極的な評価が出てきた。

決議の末尾には

「公共団体が主催して戦没者の慰霊行事をおこなうことが出きるように措置されたい」
という要求が出された。
1952(昭和27年)

愛媛県護国神社に「殉職女子学徒追憶之碑」が建立された。

1952(昭和27)年 6月、遺族厚生連盟理事会・評議会で採択した「運動方針の大綱」では戦犯について次のように決定している。
  1. 戦犯処刑者の遺族を遺族会に入れること
  2. 戦犯処刑者、学徒、国民義勇兵の霊をできれば靖国神社に、少なくとも各地方の護国神社に祭るよう努力すること。
  3. 戦没者に対し国民感謝の日を設けるよう努むること
1952(昭和27)年 4月30日、「戦病者戦没者遺族等援護法」を公布・施行。これによって遺族への年金の支給と10年償還の国債による弔慰金の支給が決まった。
1952(昭和27)年 11月6日、第4回全国戦没者遺族大会の「宣言」のなかではじめて、
「我々は国家が公務に準じた者の霊を慰め、……」
という文言が登場、「決議」にも
「靖国神社並びに5国神社の行う慰霊行事は祖の本質にかんがみ国費又は地方費をもって思弁するよう措置すること」
といい、靖国神社の国家護持の要求を掲げた。
1953(昭和28)年

3月11日、「財団法人日本遺族会」が設立され、会の目的から、遺族厚生連盟が掲げていた「戦争の防止」「世界恒久の平和の確立」「全人類の福祉」の3点はそっくり消え去った。しかし、会誌「通信」の題字下にはこの三転は引き続き掲げられた。

6月、日本遺族厚生連盟が解散。

1953(昭和28)年 8月、恩給改正法が公布・施行される。
 これによって旧軍人の遺族の大半が、軍人恩給の受給者となった。
軍人恩給は、軍人の階級に基づくもので、勤続による年金制をとっている。
1953(昭和28)年 10月、日本遺族会は寄付行為に手を加え、第2条(目的)の冒頭に
この会は英霊の顕彰、
を挿入、第3条(事業)のトップに
一 英霊の顕彰並びに慰霊に関する事業
を書きこんだ。
1962(昭和37) 8月、「A級戦犯(就寝禁固刑・1955年赦免)」の賀屋興宣が日本遺族会四代目改称に就任
1964(昭和39)年 日本遺族会機関紙『通信』の題字下の標語から「戦争の防止」を除く。
1964(昭和39)年 池田勇人内閣、戦没者叙勲を復活。
1968(昭和43年)

愛媛県護国神社に「鯨部隊(歩兵2342連隊)慰霊碑」が建立された。

1969(昭和44年)

愛媛県護国神社に「殉国22烈士慰霊碑」(アジア各地で戦犯として処刑された将兵の慰霊碑)が建立された。

1973(昭和48年)

愛媛県護国神社に満州開拓移民の「拓魂慰霊碑」(題字:白石春樹県知事)が建立された。

1976(昭和51)年 日本遺族会などが「英霊にこたえる会」を結成。
1977(昭和52)年 4月、日本遺族会賀屋会長、88歳で死去。村上勇が新会長に就任。
1952(昭和27年)

愛媛県護国神社に「女子挺身隊慰霊碑」が建立された。

1978年(昭和53)年 10月、「A級戦犯」を靖国神社に合祀(翌1979年4月19日に判明)
1979(昭和54年)

愛媛県護国神社に「忠魂碑」(題字:白石春樹知事)が建立された。

1982(昭和57) 4月13日、閣議で、毎年8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とすることを決定。
1983(昭和58)年 中曽根首相の「日中戦争は侵略戦争」とした発言(2月)に日本遺族会抗議
1993(平成5)年 8月、細川首相就任会見での「私自身は(日本の成した戦争を)侵略戦争であった。、間違った戦争であったと認識している」とした発言。日本遺族会は「英霊に対する冒涜」と激しく抗議した。
1995(平成7年)

愛媛県護国神社に「満州大712部隊慰霊碑」が建立された。

1995(平成7年)

愛媛県護国神社に「海軍戦没者慰霊碑」が建立された。

写真集


 護国神社


 陸軍第22連隊敷地内にあった招魂社(昭和5年建立 昭和21年移設)


 昭和48年建立(題字:白石春樹県知事)


「拓魂」碑の碑文


昭和54年3月10日建立の忠魂碑(題字:白石春樹県知事)


鯨部隊/陸軍歩兵2342連隊慰霊塔(昭和43年建立)


殉国22烈士の碑。アジア各地で戦争裁判を受け死刑に処せられた将兵の慰霊碑
(昭和44年建立・題字:遺族会会長賀屋興宣


同碑文


同名簿


女子挺身隊慰霊碑(昭和52年建立)


「殉職女子学徒追憶之碑」(昭和26年建立。題字:阿部能成)。唯一の昭和20年代建立のもの。
碑の裏側の碑文に 平和への痛切な願いが刻まれている。




満州第712部隊慰霊碑(平成7年建立)








海軍戦没者慰霊碑(平成7年12月8日建立)