話題一覧
精華高校に4%上田庄三郎セクハラ防止 その2セクハラ防止 その1必勝採点コソボの事情学校の働き韓国語のできる県会議員定年後の留学定年前の退職君が代 その2君が代 その1無口な校務運営委員宴会お断り日本が受けるべき罰ボケても気配り「他人のものを盗んだ教員」ナヌムの家でおしゃべり3時間韓国日本大使館前の集会韓国旅行から虹がみえるかナヌムの家へ暴飲・暴食・運動不足オリンピックはいらない名誉毀損教員と乞食マラソン職員会置き勉三合の酒
1999年4月21日(水) 晴れ
祝 4%
28年前から、ほとんどの学校で支給されてきた教育調整額(クリック) が、今月から今治精華高校でも支給され始めました。
現在進められている今治精華高校教職員組合の団体交渉のおおきな成果です。

校長も、教頭も、「私たちは理事会に要求しません」などといった文書を学園に提出すべく奮闘した教員も、まあここは 「組合が要求したものなど受け取れない」などと片意地張らずに、素直に受け取った方がいいとおもいますよ。(ええっ、何も 言わずに受け取ったって!!! いいじゃありませんか。職場全体で喜びましょう。)
少数組合ででも、これだけのことができるのです。みんなが力を合わせればすごい力になるだろうということは、学園理 事会も教職員も等しく認めるところとなりましたね。

p/c 協約書はちゃんと作りましょうね。

労働組合法
第14条(労働協約の効力の発生)
 労働組合と使用者又はその団体との間の労働条件その他に関する労働協約は、書面に作 成し、両当事者が署名し、又は記名押印することによつてその効力を生ずる。


1999年4月20日(火) 晴れ
学校が兵舎でないのなら
今日はちょっと時間の余裕があったので、話題の本『新日本共産党宣言』(不破哲三・井上ひさし 光文社1999/3/25)を読みました。

 この本の中に不破さんのお父さん、上田庄三郎さんの話が出てきます。
 高知県の教育当局が、やっかいものばらいをかねて、上田さん(in his twenties)をある小学校の校長にした。ところがその小学校というのが、7年前に焼失してしまい、今はお宮を使って授業をしているというのです。

 上田さんは、勇躍、その校舎のない学校に赴任し、子供たちとともに村を動かし、3年目についに学校を再建させました。
 その落成式のでの校長挨拶は次のようなものであったそうです。

学校が兵舎でないかぎり、
学校が牢獄でもないかぎり、
学校は子どもたちに最大の自由が認められ、
最大の創造心を培う殿堂であらねばならない。
およそ子供たちの自由と創造の天地と殿堂を壊し、
これに圧迫を加えようとするものは、
もはや教育というものではなく、教育を語る資格はない。

おっ・・洗濯物を入れなくちゃ (^0^


1999年4月19日(月)
あれれ? うちの理事会は・・・
労働省が、「事業主が職場における性的な言動に起因する問題に関して雇用管理上配慮すべき事 項についての指針」(労働省告示 20号)というのを出したのが、去年の3月13日だそうです。

「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律(昭和47 法律第113号)第21条第2項の規定に基づき、事業主が職場における性的な言 動に起因する問題に関して雇用管理上配慮すべき事項についての指針を次のよ うに定め、平成11年4月1日から適用することとしたので、同条第3項にお いて準用する同法第4条第5項の規定に基づき、告示する。 」
とし、セクシュアル・ハラスメントを防止するために、事業主が配慮しなければならないことを明示しています。内容を超略記すると、

第一は「事業主の方針の明確化及びその周知・啓発」
第二は「相談・苦情への対応のための窓口を明確にすること」
第三は「職場におけるセクシュアルハラスメントが生じた場合において、その事実に係る事実関係を迅速かつ正確に確認することについて配慮をしなければならない。また、事業主は、その事実に適正に対処すること」

うちの職場はどうなっているのかな。理事会からはなんのお達しもないようだけど。 理事長は弁護士だし知らないわけはないよな。
いやいや、昔、「労働安全衛生法」を全く無視していた弁護士兼理事長もいたっけ・・・

調べてみようっと。


1999年4月18日(日) くもり
セクシュアル・ハラスメント

 忘暮楼は、晩酌を止めて以来特に、お酒を飲むとたいてい深酔いしてしまいます。
 暴れまわったりしませんが、同席の男性に議論を吹っかけて乱暴な結論を下したり、女性にはなにかといやな思いをさせたり・・・しているようです(覚えている場合もありますけどたいていは忘れている)。
 特に、今問題になっているセクシュアル・ハラスメントについては、いくつかハズカシイ過ちを犯しています。(*^_^*)(スミマセン)

 そんな忘暮楼が自戒の気持ちもこめて、セクシュアル・ハラスメントについての勉強を少ししています。
 我が職場にも、セクシュアル・ハラスメント(男性→女性、だけでなく女性→男性も)があります。これまでも問題になったことがありますし、現在解決されないままになっていることもあります。
 身近なところでは、職員室での話題や職場の各種宴会での話題や出し物など、結構、問題があるようです。
 本校は、もともと男子校で教員も女性はほんの数名で、女性では生徒管理は不可能、といった認識の時代が長かったのですが、今日曲がりなりにも共学に移行し、それに伴って女性の教員もどんどん増えてきまして、しかもそれらの女性教員が立派な仕事をしています。
 そんな変化について行けていないのか、本校の男性教員は、女子生徒の指導においても、女性教員との付き合い方においても、まだバンカラ趣味(卑猥・無神経・・・)から脱皮できておらず、男性教員が楽しければ女性教員も女子生徒も楽しいはず、といった前提での行動が少なくないようです。

 我々男性教員がが、「男女の性意識の違い」をしっかり理解する必要があるようです。
 そういう意味で、次の指摘は参考になります。(ある労組関係のホームページで見つけました)

 いつか、勉強の結果をホームページに載せられたらいいなあ、と願っています。


1999年4月17日(土) くもり
負け惜しみ

中日の連勝は11で終った。やれやれ。

ゲ−ムとか選挙とか戦争とかいうものは、勝ったり負けたりするもので、必勝などということはありえない。
だから、「必勝」といった瞬間に大声で嘘をついたことになるのである。
「必勝」ということばは、戦時中、国家総動員法のころ使われはじめた時局用語だった、となにかの本に書いてあったような記憶がある。

どことなく負け惜しみっぽい日記になってしまった。


1999年4月16日(金) 晴れ
まね
忘暮楼は他人の影響を受けやすいほうです。
いままでに他人のまねをしたものをいくつかあげてみますと、・・・

1999年4月15日(木) 晴れ
コソボ理解支援

国連無視のNATOが、人権無視のユーゴスラビアに対する武力攻撃を強めている。

そこで春の夜の荒唐無稽の夢物語をもう一つ。

600年昔のことだ。JAPAN IMPERIALISMが中国東北部を征服して、そこに住むMANCHU人に天皇教を押し付けた。MANCHU族人は天皇教を嫌い、儒教を守るために続々と中国河北地域へ移動した。こうして中国東北部内でのMANCHU人口が希薄になった。そこへすでに日本治下におかれていたKOREA人が移住して定住した。

時が流れて、JAPAN IMPERIALISMはすでに崩壊し、いまでは日本この地域への影響力はほとんどなくなった。その後もこの地は世界の火薬庫と呼ばれつつ複雑な歴史を展開してきたが、50年前、この地は、智東さんという優れた指導者を得てからは、20数年間紛争らしい紛争もなく世界に誇りうる共存共栄の政治を進めてきた。言語も、日本語とMANCHU語とKOREA語が公用語として使われるようになった。宗教的にも複数の宗教がそれぞれの場所を確保していた。

時が流れて、20年前、智東さんが亡くなり智東体制はついに崩壊した。
この崩壊を機に中国東北部は大混乱に陥った。MANCHU人主体の中国政府が、中国東北部から、KOREA人を強制的に国外に追い出し、この地をMANCHU人の土地にしようしはじめたのだ。この動きを「社会浄化運動」と称している。KOREA半島へ流入するKOREA人が激増した。

さて、海の向こう、はるかかなたに、戦争が好きで、いつも戦争の種を探しまわっており、その上自分がいなければ人類は滅亡すると確信しているアメリカという国があった。この国が、中国の「社会浄化運動」を見つけた。「許せない!」というんで、今悪ガキたちと一緒に、1000機の軍用機を使って中国東北部に対する空爆を続けている。1機1億2千万円のトマホークを中国東北部へ毎日何十機も撃ちこんでいるそうだ。

わー、長くて、いやーな夢を見てしまった。関係各国のみなさん、ごめんなさーい。 ところで、この不思議な夢は次のような意味なのではなかろうか。

600年昔のことだ。オスマントルコがコソボを征服して、コソボを祖地とするセルビア人にイスラム教を押し付けた。セルビア人はイスラム教を嫌い、キリスト教を守るために続々とオーストリア帝国治下のセルビアへ移動した。こうしてコソボ内でのセルビア人人口が希薄になった。そこへ日本治下にあるアルバニア人が移住して定住した。

時が流れて、オスマントルコはすでに崩壊し、いまではトルコのこの地域への影響力はほとんどなくなった。その後もこの地は世界の火薬庫と呼ばれつつ複雑な歴史を展開してきたが、50年前、この地は、チトーさんという優れた指導者を得てからは、20数年間紛争らしい紛争もなく世界に誇りうる共存共栄の政治を進めてきた。言語も、トルコ語とセルビア語とアルバニア語が公用語として使われるようになった。宗教的にも複数の宗教がそれぞれの場所を確保していた。

時が流れて、20年前、チトーさんが亡くなりチトー体制はついに崩壊した。
この崩壊を機にコソボは大混乱に陥った。セルビア人主体のユーゴスラビア連邦政府が、コソボから、アルバニア人を強制的に国外に追い出し、この地をセルビア人の土地にしようし始めたのだ。この動きを「社会浄化運動」と称している。アルバニアへ流入するアルバニア人が激増した。

はるかかなたに、戦争が好きで、いつも戦争の種を探しまわっており、その上自分がいなければ人類は滅亡すると確信しているアメリカという国があった。この国が、中国の「社会浄化運動」を見つけた。「許せない!」というんで、今悪ガキたちと一緒に、1000機の軍用機を使ってコソボに対する空爆を続けている。1発1億2千万円のトマホークを毎日何十発も撃ちこんでいるそうだ。


1999年4月14日(水) 晴れ
人を元気付けるもの
 当たり前過ぎることかもしれませんが、人は人によって元気付けられるもののようです。
愛猫ナナは私の心を和ませてくれますが、元気を与えてくれるわけではありません。玄関先に今満開の水仙の花もそうです。

 例えばWalkingをしているようなときでも、向こうから誰かが歩いてくると、不思議にパワーが少し加わります。歩くフォームもちょっと変わります。見栄といえば見栄、てらいといえばてらいですが、元気がでるのは確かなことです。

プロ野球(祝!中日9連勝・・・後が怖い感じ)選手にしても、外野席が花畑だったら、春風が花畑にウェーブを起こしたとしても、そうは気合が入らないのではないでしょうか。

 存在するだけで、他人に力を与える、人間の本当の姿はそんなものなのかも知れません。ましてや、他人に、誉められたり、尊敬されたり、愛されたりすれば元気百倍でしょう。

 学校というところ、そんなところでありたい。春の夜の夢物語りかな?


1999年4月13日(火)
韓国語のできる県会議員

 昨日もらったうれしい電話をもう一つ紹介しよう。

 日曜日即日開票された愛媛県議選で、13,608票を獲得し、見事第4位で当選した共産党の佐々木泉さんからの電話である(票数は、佐々木さんのお母さんのお気持ちを推し量って「勇む親」と覚えた)。

 忘暮楼が週刊地方新聞「愛媛民報」に教育問題についての連載を書かせていただいていた頃、締め切りごとにもだえている私の尻を叩いて下さったのが佐々木泉編集長だった。これが一度目のお付き合い。

 佐々木さんは十数年ま前、松山市郊外の海岸を歩いていた。そして打ち寄せられたゴミのなかにハングル 文字の書かれたペットボトルを見つけた。そして韓国語の勉強を始めた。

 忘暮楼も時を同じくして、全く別の、とぼけたきっかけで韓国語の勉強を始めていた。

 そのころ松山市でもおくればせながらハングル講座が始まり、忘暮楼は佐々木さんと席を並べることが多くなった。こうして二度目のお付き合いが始まり、そのまま今日に至る、というわけだ。

 現職の共産党県会議員が病に倒れ、急遽そのあとをついでの立候補、「危ない。数十票の勝負になるかもしれない」と心配する声もあった中での高位当選、しかも新居浜市でも初議席が得られたということでめでたい限りである。

 それとともに、忘暮楼はもう一つ、別なことも喜んでいる。それは「韓国語の分かる県会議員の誕生」である。

 松山・ソウル間にはアシアナ航空便による直行便が設置されている。県内ではさまざまなレベルでの日韓の交流が進められている。韓国からきたお客さんが、韓国語の話せる共産党県議と歓談するようすが目に浮かぶようだ。

 ともかくも、県民・国民の政治意識は、忘暮楼の寝ぼけ頭を尻目にどんどん変化しているらしい。


1999年4月12日(月)
62歳の青春
今日はうれしい電話が四つもあった。その中の一つを紹介しよう。

 1本はソウルから。

 職場の先輩の岸宏先生が、今春から語学留学のため韓国へわたった。62歳である。待望のFAX兼用の電話がついて、今日はじめて日本へ電話するのだという。「青春してますよ」とのことであった。

 1993年、本校の修学旅行がきっかけになって、岸先生は韓国にハマッテしまった(この国は妙にハマリやすい国である)。それ以来、韓国語の勉強をするために学校へ来ているのではないか、と疑いたくなるほどイレコミで、昨年定年を迎え欣喜雀躍、1年準備をしたあとこの春単身海を渡られたのであった。

  定年まで5年を残して帰農した豆ちゃんにしても、定年後、学徒として憧れの韓国の大学に籍をおいた岸先生にしても、「変わった年寄り」(?失礼)がいるのではなく、年寄りが変わりつつあるのではないだろうかと思わすものがある。
 長寿に戸惑っていた年寄りたちが、ここへ来て「How to age」をつかみ始めているのだと言ってもよいかも知れない。

 老人ホームから、ビートルスが聞こえる時代が着々と近づいている。 


1999年4月11日(日)
「苔のむすまで」とカラダ
「君が代」(今日は、以下「苔のむすまで」と呼んでみる)の続きデス。

「苔のむすまで」を歌うとき、あるいは歌わないときの不快感と言うのは、 忘暮楼の場合は生理的なものみたいなのです。
この生理的な嫌悪感と言うのは、感じる人は感じるし、感じない人は感じないと いったもので、正しいとか正しくないとか言うものとは違うんですよ。そして、そこに 問題の深刻さがあると、忘暮楼はにらんでます。
忘暮楼が、気になるのは、身体のことなのです。
歌を歌うということは身体運動ですよね。一つの歌を歌うのどのくらいの数 の筋肉を緊張させ弛緩させるのか知らないんですけど、他人に歌を歌わせるということは 結局、他人の筋肉の動きを支配するという言うことでしょ?肺臓の収縮を支配することに よって呼吸を支配し、 声帯の緊張を支配し、あごの動きや舌の動き、唇の動きやノドチンコの動き、 そして私たちが直立しているためのすべての筋肉を支配するわけです。
忘暮楼にとっても、歌というものは自己表現の手段ですので、カラオケで悪いお友達から 、いつもの「タートエシンデモイーイワー」の絶唱を強いられても、それはそれで気持ちよく 諸筋肉を緊張させてしまいます。「苔のむすまで」だって、好きな人は何でもないんですね。 それどころか、歌うたびの感動する人だっている歌も知れません。
でも、強制されると、話はがらっと違ってきます。

「ある学者は、カール大帝(742―814)が軍事力によってグレゴリオ聖歌を普及させ ようとしたのは、フランク王国統一のための重要な手段であったといっています。」(注)
統一国家を創出するために、人々に同じ歌を歌わせた王もいたわけです。これも基本的には 国家による身体支配、身体支配による国民創出だったのだと思います。

別に歌でなくてもいいのです。大名行列に出くわせば道端にかがませ顔を上げさせなかった。 日本帝国時代のソウルでは、朝鮮総督府の建物の前を通るときは顔をあげさせなかった。うつむいて歩かせた。
ある生徒が書道練習室に移動するとき、ほかのある生徒に自分の筆を持たせる。これが完璧ないじめなのです。 その生徒を裸にしてみるとなんと殴られたりつねられたりした痣が一杯ついていた、という経験があります。

筆は軽い。歌はもっと軽い。でも重量は問題じゃない、身体の支配に事の本質があるんだと思います。

忘暮楼は『夫婦鏡』を歌う。君は「苔のむすまで」を歌え。

    (注)『自分の中に歴史をよむ』p196 阿部謹也著 筑摩書房


1999年4月10日(土)
かわいそうな「君が代」

 「君が代」の歌詞のもとは、御存知、次の「古今和歌集賀歌(がのうた)」

わが君は千代に八千代に細れ石のいはほとなりて苔のむすまで

わが君のお年は千代、八千代にまで続いていただきたい。一握りの小石が少しずつ大きくなり、大きな岩になり、それにこけが生えるときまでも。

 訳は小学館「日本古典文学全集」による。千年も八千年も生きるなんてぞっとする話だけど、死なないことの価値は今よりずっと高かったのかもしれない。昨年、医者から癌かもしれないと診断されたときも、ちょっと興奮したけど悲しいとは思わなかった。そんな気分になるのは、したいことをしたいようにやってきたせいかもしれない、と思ったりしたものだった。
 「細れ石」云々は中国の伝奇小説によるものだそうだから「非科学的」は当然か。
 「『君』はこの歌を贈る相手。この巻頭の4首を初め、賀の歌ではしばしば用いられ、天皇を指すとは限らない。」との注がある。たとえば次ぎの歌。

かくしつつとにもかくにもながらへて君が八千代にあふよしもがな

今夜はかようなめでたい宴を張ってともに楽しんでいるが,私はどうかして今後も生き長らえそなたの限りない長寿にめぐりあいたいものだ。

 この歌などは、光孝天皇が70歳になった僧正遍照のために贈った歌だそうだから、「君」は臣下にたいしても使われたらしい。

 ところが「我が天皇陛下のお治めになる此の御代は、千年も万年も、いや、いつまで続いてお栄えになるやうに」とは、1937(昭和12)年の小学校4年生の修身の教科書の解釈。
 こんな底抜けにめでたい祝い歌が、天皇崇拝の式典には無くてはならぬ「天皇歌」にしたてあげられたのは、「めでためでたの若松様よ、枝も栄えて葉も繁る」(花笠音頭)が「天皇歌」にされたようなものである。   

110年間も解釈をねじまげられ続けられたか「かわいそうな君が代」。国会でも裁判所でも歌われないのに、サッカー場はボクシング会場や相撲の場所で間の抜けた声で歌われつづけた「かわいそうな君が代」。国民的対立の原因となり、国民の不和を助長する仕事をさせられ、ついには校長先生の自殺の原因にまでなってしまた「かわいそうな君が代」。

もう引退させてやりたい。


1999年4月9日(金) 晴れ
チャイム

 職場の新人歓迎会。最後の酒をしっかり飲んだ。

 chime to chime が話題になった。
 校長が、年度の始めに「授業はチャイムからチャイムまで」という方針を打ち出した。生徒たちの学習態度改善のための取り組みの一環だという。教員は、チャイムが鳴ったとき既に教壇に立っていなければならない、というのだ。

 年度始めの職員会でこの方針が発表されたときは、反対意見は出なかった。忘暮楼は、それもよかろう、と特に意見は言わなかった。
 ところが、職員会のあとの教科会で、おそるおそる同僚諸氏に、あの方針はホントにできるんやろか、ときいてみたら、皆さん確信を持って「できない」という。

 校務運営委員会でも、校長のこの方針に異論はでなかったという。校務運営委員会というところは、無口な教員を集めているのだろうか。いやいや、そうではあるまい。日常は結構よくしゃべっている人が多い。ようはチェック機能を果たせていないのだ。 これじゃ、校長は『裸の王様』ですがな・・・。かわいそう。

 あさってから授業が始まる。みなさん、何かにつけて「最初が大事」と強調するが、校長の方針が初日から守れない、となるとその影響は相当大きい。
 それで、忘暮楼は酒席ではあったが、校長に「あの方針はみなさんできないと思っていますよ。なにか手を打たないと、いけないんじゃないですか」と進言した。

 そのあとたまたまH先生に一献差し上げて話を聞いたところ、かれは、「chime to chime は絶対不可能」と主張する。「そりゃあ校長に言わんと・・・」。
 と言うわけで校長を拉致してきて、H先生の話を聞いてもらった。
 二人の話はかなり長い間続いていたが、さて、校長の結論はどうなったかな。

 こんな楽しい酒席も今日からしばらくお別れだ。

1999年4月8日(水) 晴れ 74.5kg

 豆ちゃんは今年56歳になる。だから定年までまだマル5年あった。そのうえ、うちの職場では、定年後も5年間は講師として勤めることが出来るので、合わせて10年はまあまあ安定した暮らしが出来る可能性があった。退職金も、今辞めたんじゃ、うんと低くなる。

 だけど豆ちゃんは、そんなもん、ぽんとほうり捨てて、新しい生活へと旅立った。
 まず辞表を出して、それから住むところを探し始めた。これが豆ちゃん流だ。計画的といえば、更新を放棄して失効していた車の免許を取り直したくらいのことだ。

 エリちゃんに自然の中の生活を体験させたい、いまや虚業と成り果てた教員稼業から足を洗い、家族一緒にもっと実の有る仕事をしたい……、豆ちゃんはわれわれのような飲んだくれと付き合いながら、その一方で美しい夢を着々と育てていたのだ。

 豆ちゃんは、愛する妻とかわいいエリチャンを車に載せて、愛媛県、高知県、宮崎県、熊本県、大分県、福岡県と走りまわり、永住の地を求めてさまよった(?)。一時はとりあえず兄弟の家に居候して…とも考えた。

 しかし、今日、ついに永住の地が見つかったという朗報が届いた。
 大分県竹田(たけた)市、豊後竹田駅から車で5分のところだという。180坪くらいの宅地に、奥さん得意のキムチ(これがほんまにうまいのです)作りに必要なくらいの畑もついているそうだ。

 エリちゃんの小学校入学の手続きも完了。ピカピカ一年生はエリちゃんを含めて16人、豆ちゃんが望んだ通りの規模だ。近所には清流が流れ、温泉があり、九重高原だって20キロメートルの位置だという。

 よかった、よかった。順風が吹き始めたね。明日は出発だそうだ。万事如意(ワンシールーイー)を祈りたい。一路平安(イールーピンアン)を祈りたい。5月には訪ねていこう。 

1999年4月7日(水) くもり


ヤクルトvs巨人をラジオで聞きながら、45分のウォーキングをしてきた。西空にはシリウスやプロキオン、天頂には獅子座が輝いている。春だ。

ここんところ、酒席が多すぎる(なんて、幹事のせいにしてる・・・)。豆チャンの送別会だけでも、三つもあった。一つははしょったけど、はしょらなかった分はわけがわからなくなるほど飲んだ。
花見もあった。これも深酒。
韓国でも、ヒョンホ君のお父さんと焼酎を4本も飲んだし、「ナヌムの家」でも最後はどうなったのやら記憶に無い。

今日は1ヶ月1度の糖尿病の定期検診があった。やっぱり・・・(>_<) ヘモグロビンA1cの数値がおかしい。
この数字は過去3ヶ月の血液コントロールがわかる数字だそうで、昨年9月は12.9%だった。理想値は6%以下なのに。
これが12月は5.6%、1月は5.5%、2月は5.4%だったのに、3月はなんと5.7%になっていた。つまり1,2,3月の血糖コントロールに失敗しているわけだ。2、3、4月はもっと悪くなるだろうなあ(^^;)

結論。あさっての職場の親睦会の新人歓迎会でシコタマ飲んで、そのあと一年間(つまり来年の歓迎会まで)禁酒します。
不義理なことだが、その後の宴会は全部おことわり。ちょっとさびしいけど、まあしょうがない。


1999年4月6日(火) くもり
 愛猫ナナは我が家のお姫様です。「愛玩動物が飼い主をしつける」というのは本当ですね。
 部屋の戸を開けろとか、イリコを出せとか、布団の中に入れろ(忘暮楼はナナと寝ているのです)とか、 「にゃ」とか「やーん」とか適当に鳴きながら指令します。

 部屋の戸が引き戸の場合は、自分でゴロロと開けて入ってきます。
 かみさんは、「自分で開けられるのだったチャンと閉めて欲しい」とナナに文句を言っています。
 そこで忘暮楼が知ったかぶりをして言います。

 「開けるのは単なる利己的行為なんだけど、閉めるってところに文化があるんやね」

 金徳景さんは、癌で死ぬ直前まで「パスポートの更新はできたかなあ」とまわりになんどもなんども確認していたそうです。
 まだまだ何度も何度も日本へ行って自分たちを皇軍「慰安婦」として食い散らし、いまだに謝罪も補償もしようとしない日本政府に、何が真実であるかを訴え続けるつもりだったのです。
 その金徳景さんが、病状悪化による激しい息遣いのなかでこう言っていました。

 「日本は、後のことを、考えずに、大変な、罪を、犯した。罪を、犯したものは、罰の受けなければ、いけない・・・」
 皇軍が考えたことは利己的な欲望を満たすことだけした。その行為によって、後々誰がどんな境遇になるか、などは全く配慮しません。

 こんなこというとナナには悪いかもしれない、皇軍と日本政府がやったことは、ネコ以下です。無文化です。
 使用済み燃料(核廃棄物)の処理法も考えないで、原発増設を続ける日本政府も全く同じ発想ですけどね。   

忘暮楼の写真別館ができました。 こちら です。


1999年4月5日(月) くもり

昨日の花見酒が残って一日しんどい。昼寝をした。

入院中の母じゃを見舞う。 今日は、目を開けて、忘暮楼の手を握って、「いそがしい?一人?ごはんは?」 などと尋ねてくれる。ボケていても心配りのできる人だ。

末っ子が大学をやっと卒業して凱旋帰省。しばらく定職にはつかずあれこれやってみるそうだ。それもよかろう。

同病の大阪の高仁鳳さんからメールをいただいた。写真のたくさん載っているHPを作っておられる。
忘暮楼はいまHPを二つもっているが、高仁鳳さんのHPをみて、ドリームネット(http://plaza26.mbn.or.jp/~boboro/)のほうを、写真専用にすることを思いついた。
こうすれば本体(http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3648)の方のメモリを確保できるし、デジカメも喜んでくれるだろう。

写真の扱い方を、高仁鳳さんのHPのソースからパクらせていただいて、ただいま工事中。


1999年4月4日(日) くもり
ある私立高校の就業規則案

 職場には「就業規則」と言うものがありますね。労基法上、いろいろ制限があるのですが、結局のところ事業主が勝手に作ることができる代物です。そんな事情もあって、就業規則は、団体交渉で締結される「労働協約」に対しては常に下位におかれます。つまり、団体交渉で、就業規則より改良された労働協約が締結されると、就業規則の方も自動的に、右へならえ、するわけです。

就業規則は、職場内外での労働者の行動を規制しようとする一方、事業主をもある程度規制します。これを忘れる事業者がたまにいます。
 最近、忘暮楼もかかわったある私学の場合、就業規則で、日直手当ての支給を定めているのに、これまで1銭も払っていない、というケースがあって、今回組合の交渉で2年間さかのぼって支給させることになったという例があります。「従業員に厳しく己に甘く」、という傾向の強い事業主なのかもしれませんね。

 就業規則が、結局、事業者の意思で決められるというところから、就業規則にはその事業所の事業主の考えが、案外正直に出てきて興味深い面もあるんですよ。どんな従業員の存在を想定しているかが分かるからですね。

 たとえば、教員が勝手に学級の決まりを決めるとすると、できあがった学級規則を読めば、その教員がどのくらいのレベルの人か、大体分かるようなものです。

 ある学校が次のような就業規則を準備しているそうです。どんな経営者なんでしょうねえ。

次のような教員は懲戒解雇とする。
  1. 火気の扱いをおろそかにした教員
  2. 火災を起こした教員
  3. 学園の財産を盗んだ教員
  4. 他人のものを盗んだ教員
  5. 他人に暴行を加えた教員
  6. 他人を脅迫した教員
  7. 本校教員であることを利用して私利をはかった教員
  8. 学園内で許可無く演説した教員
  9. 在席のまま(ナンノコトカイナ?)ほかの仕事をして業務に支障をもたらした教員

学校と言うところは、相当ヤバイ人たちの集まるところのようですね。


1999年4月3日(土) くもり
ナヌムの家の最初の写真
ナヌムの家のこと。
 韓国政府の呼びかけに答えて、元皇軍「慰安婦」体験者としての申告をした女性は191名(1993年3月現在)。その中で今日も生存しておられる方が150余名とのこと。
 そのうちの8名が、ヘジン上人以下米倉まゆみさんなど8名のスタッフとともに、キョンギ道広州郡退村里の「ナヌムの家」で共同生活を送っている。
 行ってみた感じは相当遠い所のような印象を受けたが、今、改めて今地図で見てみると、なあんだ、それほどでもないのでした。

 ソウルの漢江のほとりにオリンピック公園がありますね。この公園の裏山(ちょっと離れてますけど・・・南東の方角)が古戦場で有名な南漢山城の山(480M)。この山の、ソウルから見て裏っ側に当たるところに、タクシーの運転手から聞いたところでは「焼き物で有名」だという広州や、漢江の最下流のダム湖・パルタン湖がある。たっぷり水をたたえて南北に長く広がるこのパルタル湖の、一番南の奥の谷間のどん詰まりに「ナヌムの家」がある。

 さて、おばあさんたちに差し上げる贈り物を何にしようか。これは訪韓前からの悩みだった。「家」訪問の前日、最終的に「韓菓(日本で言うと和菓子)」にすることになりかけていたが、そのときイチロー君だったかヒョンホ君だったかが、忘暮楼の糖尿のことを思いだし、「おばあさんの中にも糖尿病の人もいるかもしれないし・・・」とやさしいことを言った、その拍子に思いついたのが「ソコリ」、牛のシッポであった。これでスープを作れば歯の悪いおばあちゃんでも味わってもらえるぞ。

 案の定このお土産はすこぶる好評で、絵かき(?)の金順徳さんが、さっそく箱を開いて、二つの大鍋にそれぞれソコリをどっさり入れ、水をたっぷり入れて煮始めた。夕食用である。忘暮楼もアクをとったり、おしゃべりしたり、挨拶らしい挨拶もしないまま夕食の準備を手伝う。

 このソコリは、たまたま忠清南道扶余の産なのだが、歌手(? 恐ろしいほど歌がうまい)の斐春姫さんの話しでは、肉は扶余に限るらしい。

 夕食の時間になって、ソコリのスープを金順徳さんがお椀に注ぐと、忘暮楼やイチローやヒョンホが食卓の上に配って行く。あっちの方から別のおばあさんが、「イチローや」と呼びつける。何か手伝わせる積もりらしい。おばあちゃんたちとこんな関係でいられるなんてシアワセダナー。肩の荷が降りた感じ。

 忘暮楼は愛用のデジカメでこんな光景を撮りたくてたまらないのだが、おばあさんたちにぶしつけにCameraを向けるのも憚られる。それで、まずは遠慮無く撮れるものから撮っておこう、とシャッターを切ったのが、ナヌムの家のキムチ(下の写真)でした。

 あとは、お酒も入ってよい写真がいっぱい撮れました。斐春姫さんの言:「ソコリはいいお土産やね。韓菓にしようかと思ったって? あれは美味しくないよ。病気の人もいるし・・・」
 ・・・よかった。危ないところでした。「うめぼしもいいよ」とのこと。次回のナヌムの家訪問のときは梅干しも忘れないようにしようっと。

ナヌムの家のキムチ


1999年4月2日(金)
大いに語り合って(?)


 昨日は年度初めの職員会、前夜はたっぷりとお酒も飲み、友と大いに語ったりもしたので、すっきりとした気分で臨めた。

 校長の年度初めの挨拶もなかなかよかった。「生徒たちが落ち着いた雰囲気で授業に臨めるよう指導していきたい」など、書いてみると平凡だが、新田高校の現在の課題としては適打だと思う。年度末の進級認定会での長時間の意見交換の反映と捕らえたい。

 いったい、王が臣下を作るのではない。臣下が王を作るのである(と、どなたかが言っていたなあ)。独裁的な王といっても、結構それで甘い汁を吸っている人々がいるわけで、その人たちはやっぱり自分に都合のいい王を作っていることになるわけだ。

 そう言う意味で、職員会のあと二つほど進言もしておいた。
 「時間講師の先生方がいないところで話しても意思統一はできないですよ」、
ってことと
 「始業式と入学式で、授業態度が悪くて改善のあとが見られないような場合は、テストの点が少しばかりよくても、進級させないつもりだ、と宣言してください」
ってこと。分かってもらえたと思う。

 ・・・と快調なんだが、前夜ともに杯を交わし語り合った柳瀬氏、籠氏の様子がおかしい。柳瀬氏はふらふらしながら歩いているし、籠氏は二日酔いのようす。

 聞いてみると、なんとまったく「語り合って」いなかったのだそうだ。ともかく私めがベラベラぺらぺら・わいわいぺちゃくちゃと、何でも2時間半か3時間近く、一人でしゃべり続けたのだそうだ。

 私以外も皆さん論客ばかりだのに、全くしゃべる機会を与えられないので、私と同じ位酔わなくちゃ・・・とひたすら飲んでいたのだそうだ。ナニしろ店長代理のスンジャが、「オノウエ氏、たのむけん、ヤナリンにもちょっと話さしちゃってや」と私に懇願したというから、よほどだったんだろうなあ。それで、皆さん、結果的には大変な深酒になったのだという。

 籠氏はきつい二日酔い、柳瀬氏は朝から連続嘔吐。もう一人の松原満紀氏は「久しぶりに家で吐きまして、今日は半分死んで居りました。」とメールを送ってきた。

 皆さんすみません。


1999年4月1日(木)
第354回水曜集会に参加したよ

韓国旅行の報告を少し・・・
第2日(3月24日)
 ソウル昌徳宮の後苑を歩いた。ここは普通は「秘苑」と呼んでいるが、この呼び方は日本人がつけたものだという。 ねんのために案内の女性に聞いてみたら、ちょっと声をひそめて、「そのようですよ」と答えてくれた。

 12時から日本大使館前の定例の水曜集会が開かれると聞いていたので、ヒョンホ君とイチロー君と3人で現場へ行ってみた。みんな、初めての参加である。
 やってる、やってる。大使館前は40人ほどの戦闘警察が道路沿いにずらりと並んでいて、道路の反対側に50人ほどの市民が横長の集会をしている。 挺対協の人らしい女性が演説をしている。

 我々はまず戦闘警察の列の方へ行って集会の写真を撮る。おお、松山へ来てくれた金順徳さんがいるぞ。斐春姫さんもいるぞ。「とうとうここへ来たんだなあ」としばしうっとり(?)・・・
 それから3人はおもむろに集会の一番端っこに陣取る。挨拶はまだ続いている。ナニ言ってるのか、チョット聞き取れない。

 日本人が結構参加している。10人くらいはいるんじゃないかな。その中の一人に「米倉マユミさん,いらっしゃる?」と尋ねたら、すぐ傍にいた女性が米倉さんだった。
 さすが土佐のハチキン娘、体格も立派でおおらかそうな顔立ちだ。すぐに仲良くなる。

 女性がやってきて「日本のどこから来たんですか?職業は?」などと聞かれた。
 しばらくすると、進行係の女性が「それでは日本から学生と一緒に参加してくれたオノウエ氏に挨拶をしてもらいます」って言ってるじゃない。エーーーーッ (◎-◎;)!!
 「ヨネクラさん、ヨネクラさん、通訳して・・・」。ヨネクラさんの背中を押しながらみんなの前に立った。目の前に金順徳さんがいる。

挨拶の前に金順徳さんのところへ行って手を握って「センガンナセヨ?オノウエインミダア」というと「覚えてるよ覚えてるよ、よく来たねえ」ときれいな日本語。松山へいらっしゃったときは日本語を使わなかったけど、本当は上手なんだなあ。
 進行係に急かされて挨拶。挨拶の内容は大略次ぎのようだったと思う。

 「ここへ来ても、なんと申し上げたらよいかまだわからない状態なのですが、一言御挨拶させていただきます。日本政府はいまだに皆さんに謝罪もしなければ補償もしていませんが、皆さんに謝罪し補償する政府を作り得ていないことは、日本人である私たちの責任です。これから日本は選挙の季節に入りますが、そのような政府を作るための戦いのひとつとして、皆さんへの謝罪と補償の必要を主張する政党の前進のために力を尽くしたいと思います。」

 ウエー!大演説をしてしまったなあ。

 昨日、一緒に集会に参加したヒョンホ君からメールがきた。ヒョンホ君は、1週間後(3/31)の第355回水曜集会にも参加したのだという。
「・・・今日も水曜集会に参加しました。ハルモニたちとマユミさんが挨拶をしました。韓国人だということより、人間だということで、これからもずーっとこの集会に参加したいと思っています。今日は大阪から7人の弁護士が集会を訪問しました。天気もよく暖かかったです。一日も早くこの悪夢が終わればいいと思います。」


1999年3月31日(水)
韓国旅行終了
昨日韓国8日間の旅を無事終了。飛行機代とホテル2泊で32000円、滞在費が71000円、計10万3000円でした。
同行してくれたヒョンホ君(17)の旅費や食費、nanumの家のお土産代九万ウオンも含んでの値段だから安い旅行だった。
ヒョンホ君の父上が軍人用の旅館を世話してくれてこれが一泊一人350円(キャー)、これで3泊差せてもらったのが助かった。

旅程
3/23 松山発。ソウル市内見物。サボイホテル泊(一人7000円)
3/24 ソウル市内見物。第1会館泊(一人350円)。
3/25 国立慶州博物館など。旅館泊(一人800円)。
3/26 東海(日本海)文武王海中陵など。一郎君は日本海を生まれてはじめてみた。第1会館泊。
3/27 ソウル市内見物、ダウン。生徒たちはミュージカル「the last empress」(明成皇后暗殺事件のミュージカル化)を見に行く。第1会館泊。
3/28 ナヌムの家訪問、泊(お礼として一人千円)。
3/29 ソウル市内見物。サボイホテル泊。ヒョンホ君のお家から、辛ラーメン1箱ずつ(1箱三〇個入り)と昨日の晩作ってもらったキムチたっぷりをいただく。
3/30 帰国

以下、nanumの家に住みこんでいる米倉(土佐のハチキンさん)さんからの私信と返事ですが、感想代わりに・・・。

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米倉さん、おはよう! ご住職、オモニ(僕にはハルモニという感じじゃないなあ・・・)たち、おはようございます。
食うことばっかりの尾上です。
今度の旅行は,本当にすばらしいものでした。それはやはりnanumの家を訪問できたことが大きな理由でした。
数年前から行かなくちゃ,行かなくちゃ、と思っていたのですが、言葉の心配があったことがひとつ、それから一番は、やはり日本人としてどんな顔をぶら下げていけばいいのかわからなかったこと、そんなことで躊躇していました。

今回出雲先生から米倉さんのことを聞いて即座に「行こう!」と決めました。ぶら下げていく顔はその日の顔にまかせよう、とにかく一度行かなくちゃ、僕自身の生き方があいまいなままで終ってしまいそう、そんな感じで訪問をきめたんです。

nanumの家滞在中は、順徳オモニや春姫オモニをはじめたくさんのオモニたちに本当に優しくしてもらい感激しました。オモニたちの手のぬくもりが今でも思い出されます。
今回は役立たずで、meog-neun geos-e daihaiseo-neun(man!) an ji-neunda,  i nom-a(食うことだけは負けないぞ、この野郎) でしたが、次ぎはなにかに役に立ちたいですね。

今日たまたま松山・日本コリア協会理事会があるのですが(13:15から地労委の審問の補佐人、17:00から理事会、そのあと一杯・・・結構忙しいなあ)旅行の報告をするとともに、毎週水曜日に、ソウル日本大使館前の水曜集会に対応して、簡単なことでもよいからなにかできることはないか、相談してみようと思っています。

スンドクオモニにいただいた焼酎(二本)はあの晩ホテルで飲んでしまいました。おいしかったでーす (^o^)
右取り急ぎ御礼まで。

----------------いただいた手紙---------------

尾上先生そして一郎君今回の韓国での旅はいい思い出が沢山出来ましたか?なぬむのイエのみんなまた来たらいいのにね。っといっていますよ。今度はいつ来られますか?是非是非・・・
ここに来てから私も進んでお酒を飲むほうなのでほとんど毎日飲んでいます。勿ろん今日もまたのみました。
先生とお会いして、そして一郎とあって高校のころのことをいろいろ思い出しました。私には尾上先生のような先生がいたかなあ?と考えたのです。海外まで連れていってくださる先生、しかもなぬむのような所にいっしょにいく先生はいなかったなあ。そういったテンではいちろうは幸せものだと思う。

では私の感想文はこのへんにしておやすみなさい。

米倉 万有美


1999年3月23日(火)・・ということにして
虹が見えるか

山がどうして見えるかというと、そこに山があるからですね。

しかし、虹は、そうではない。虹がそこにあるから虹が見えるのではなくて、そこに人間がいるから虹が見えるのだ。
地上や空中の物質が太陽の光を受けていっせいに乱反射する。さまざまの色の光線を放射する。空中に浮かぶ無数の水滴も光を乱反射する。

そこに人がいなければ、ことはただそれだけのことである。
だが、あるときそこに人間がいると、その水滴たちの乱反射する光が、美しい虹として現れることがあるのだ。

目をつぶると、虹は消える。目を明けてみると、また虹が見える。だから、ついに人間は、そこに虹があるから、虹が見えるのだ、と思うようになったわけだ。人間は、こんなに美しいものを、自分の目が作り出したとは信じられずにいるのだ。
しかし、実際、人っ子一人いない大海原に虹が立つことは絶対にないのである。

それがどうした、と言われそうやなあ。
実は、22日の新聞に次のようなことが書かれていたのです。その記事のおかげで一日悩んだ?のでした。

地球は46億年昔に形をなしたのだが、その直後に、ある天体が地球に衝突してコナゴナに砕けて地球を周回し始めたという。このコナゴナの物体がたった1ヶ月ぐらいのうちに固まって月になったのだそうだ。(それでツキのことを月を呼ぶようになった・・・はウソ)
その時の月と地球の距離は今の16分の1だったそうです。
それで、この計算をした東大の小久保さんが「誕生直後の月は地球から見ると、現在の約三〇〇倍の大きさで、それは見事な眺めだったに違いない」と話していると記者が書いたのです。

えええーーっ(◎-◎;)!! 「見事な眺めだったに違いない」だってえ? 誰が見るんじゃあ。人類はおらんぞオ。頭がくらくらする話しやナア。

○あんたが精子だったころ、あんたを追いかけてくる数億の精子たちが尾を振る音は宇宙を震わすほどのものだったに違いない。
○地球の核の部分に潜りこむと、自分が、渦巻く灼熱のマグマの中にいることに気づくに違いない。

まあ、こんな感じのはなしやろ。理解に苦しむ話です。実際それがどうした、なんだけど、一日不思議な気分にしてくれた記事だったのでした。


1999年3月22日(月)晴れ
明日から韓国

明日から8日間の韓国旅行です。新田高校ハングル同好会唯一の会員中本一朗君との「二人ぶらり旅」 ・・・のんきなものです。
ソウルで4泊、天安で1泊、慶州で2泊の(あくまでも)予定。
今回の旅行のめだまは、まず、イチョンホ君と言うメール友達の青年(17歳?)が 案内してくれること。オフミのような意味もありますね。
それから初めて文武王の海中陵を訪れること。韓国の日本海(東海)海岸に立つのはこれが初めてです。
最後になんと言っても初めてナヌムの家を訪問できること。松山大学(春からは神奈川大学に移られますが・・・) の出雲先生のご紹介で、今年1年ナヌムの家で住み込む土佐のハチキン娘(だと想像しています) 山本万有美さんが取りもってくださることになっていますので,言葉のほうも大丈夫。
1996年の8月13日に元「慰安婦」の金順徳さんが松山を訪れ性的暴力を受けつづけた屈辱の青春と その後の苦難の人生を話してくださった。その時私たち夫婦が金順徳さんの「足」係として車であちこち走ったのでした。
今回、3年ぶりにお会いできることになってとても楽しみです。確か、竹製品が好きだとおっしゃっていたので 今日は竹製品の店へ行ってみましょう。
ではでは。


1999年3月21日(日)
プライバシー(?)大公開
昨年9月から大騒ぎした糖尿も愛媛生協病院シロウチ先生のご指導のもと、
@エネルギー過摂取抑制の食事療法、
Aその一環としての晩酌停止、
B膵臓機能活性化のための運動励行

の3点セットでなんとか押さえこみました。そこでこの間の闘病経過を数値で一挙公開。体重は昨年の今ごろは82kgでしたが,今日は74kgです。70kgをきりたいなあ。
暴飲,暴食、運動不足・・・これが諸悪の根源ですね。

年月日 体重 血圧 食後血糖値
(100〜140mg/dl目標)
ヘモグロビンA1c
(7%以下良)
尿糖 フクトサミン
(285以下適)
飲酒日
1998/09/09 ? ? 552mg/dl
ブドウ糖負荷試験の数値
12.9 ++++ ? 8月30日からなし
:この日入院
1998/10/9 ? ? ? ? ? 343 この間なし
1998/10/14 ? ? 111 9.5 - ? この間なし
1998/10/28 71.8Kg ? 91 ? - 296 この間なし
1998/11/11 ? 118-80 88 6.8 - ? この間なし
1998/11/25 74.2 124-84 96 ? - 278 この間なし
1998/12/9 73.0 134-94 92 5.6 - ? この間なし
注:12/9オイグルコン
投与停止
1999/1/6 75.0 140-96 110 5.5 - ? 1/4、1/5
1999/2/10 73.5 116-86 88 5.4 - ? 1/8、1/23、1/28、2/5
1999/3/10 74.0 ? 87 ? ? ? 2/10、2/13、2/18、3/4


1999年3月20日(土)
オリンピックはいらない

3月16日は二年生のクラスマッチだった。そのときちょっといいものを見た。
競技種目は、雨の日でも予定通りできるようにということで、バスケットボールだった。私は本来自分の授業時間にあたる時間だと言うので監督に出張っていた。
ただ、結構格闘技的な要素があるので、実際今までにもクラスマッチの途中で険悪な雰囲気になったこともある。私は寒い体育館の隅っこで、小声で「秋田船方節」の練習をしながらゲームを眺めていたのだが、途中で面白いことに気がついた。
審判がいないのである。時折ややこしいプレイもあるんだけど、審判なしでゲームはスムースに進行していくのである。クラスマッチ全体の進行は女子生徒が仕切っている。
これで試合をみるのが一層面白くなった。この子達が大人になったらちょっと粋な社会になるんじゃないかな、と3,40年先のことを考えたりもしながら見入っていた。
なぜこのようにおっとりと、楽しげに、紳士(?)的に進んでいくのだろうか。それは生徒たちが遊びに徹しているからだと思う。スポーツは本来遊びなのだ。遊びがルールを産み,遊びだからこそ自主的にルールを守るのだ。クラスの名誉とか学校の名誉だとか、あるいは国家の名誉だとか、そんなものが絡むとだんだん目が吊りあがってくるのだ。

さて、「より速く(Citius)、より高く(Altius)、より強く(Fortius)」がオリンピックのモットーだという。
せわしないモットーだなあ。落ち着きがない。他人と競うことや他人を否定することに最大の価値があるという考え方である。私はこんな考え方のために世界中の若者を動員することに賛成できない。このようなモットーは、個人的な、同好の人間同士の間でのみ言いたてられるべきで、公共の場や子どもたちの前で語られるべきものではないと思う。
あの生徒たちの、のびのびとした、自律的な楽しみかたの方にスポーツ本来の姿があるように思う。

IOCの腐敗ぶりが指弾されている。これまで表に出なかったものが表に出た背景にはアメリカのジャーナリストたちの取り組みがあったらしい。アメリカ人ジャーナリストたちがアメリカでのオリンピックを取材し、IOCのお歴々のゴッチャン精神に直接触れてビックリした、のだという。
私は、腐敗も問題だが、オリンピックそのものが無用の長物だと思っている。
オリンピック憲章の第1条をまとめると「スポーツの基礎である肉体的、道義的性質の発展を推進し、スポーツを通じ相互理解の増進と友好の精神によって若人(わこうど)たちを教育し、それによってよりよい、より平和な世界の建設に協力する」(「小学館百科事典」)となる。
この第1条をよく読んでみると、オリンピックがスポーツをなにか別のもののための「手段」と考えていることが分かる。そしてナチス・ドイツも往年の米・ソもたしかにオリンピックを別のもののために利用したのだった。
第11回大会(1936・ベルリン)〕は独裁者ヒットラーが国威宣揚のために準備した大会であったのに、49カ国から五千人近くの若者が集い、ドイツ国旗として使われたナチ党旗の林立の中で友情を深めあった。そしてのちにナチスと敵対するアメリカも、ドイツと金メダルの数を競いドイツの38個には及ばなかったが、24個の金メダルを獲得して満足したのだった。
このときにオリンピックの廃止が検討されるべきだったのだ。そして中止になった第12回大会(1940・東京)でもって完全に廃止されるべきだったのだ。

うーん、どうも最近暗い発想が多いなあ (▼▼)


1999年3月19日(金)
名誉毀損とボクシング
若い弁護士さんから名誉毀損のはなしを聞いた。ホームページに地労委の陳述書を載せたいのだが・・・、と尋ねてみたのだ。
説明を聞いて思ったのだが、名誉毀損と言う問題はボクシングとそっくりである。

ボクシングの選手がやっていることは,要するに「外傷、骨折、病気の悪化、めまいや嘔吐(おうと)など生理的機能の侵害」であるから傷害行為である。
他人に対する傷害行為であるのになぜ罰せられないのか。もちろんゲームだからである。同じ行為を街角を歩く他人に対してやったら刑法によって罰せられる。

名誉毀損というのは、他人の「社会的評価を低下させる行為」である。「小学館百科事典」で名和鐵郎さんは、「社会生活を営むうえで社会的な評価が重要な意義をもつところから、刑法は社会的評価としての名誉を個人の人格的法益として保護しているのである。」と説明しておられる。昨日の話ではないが、教員などもこの「社会的評価」のご利益を多々受けているわけである。

ところが、今回の今治精華高校の不当労働行為救済申立てにかかる学園側の陳述書などは名誉毀損のオンパレードである。我々の側の陳述書にも、学園関係者の社会的な評価に影響を与えそうな事実が明らかにされている。なぜこれが刑法に触れないのか。それは、地労委の審問だからである。あるいは裁判だからである場合も多いだろう。
裁判や地労委の審問ではない場面で同じことをやるとこれは名誉毀損になるおそれがある、というわけだ。

結局,弁護士さんは、「うーーん、ギリギリやなあ」との判断だった。

不特定または多数人の認識しうる状態で、結果的に人の社会的評価を低下させることがありうる具体的な事実を告げること---つまりホームページにプライバシーに触れられた陳述書を公開することはどうもきわどいらしい。

忘暮楼のホームページに「更新準備中 愛媛の私立学校」と予告していたのはこの陳述書のことだったのである。以上のような事情ですので、この予告は撤回しておきましょうわい。


1999年3月18日(木) 晴れのちくもり
捨て勉
日本コリア協会主催「豆塚春滋先生送別会」。七時から「玄海本店」にて。
豆塚先生(豆ちゃん)は定年まで5年を残して教員を辞めた。帰農してボランティア活動に取り組む。うちのカミさんも定年3年前に辞めるつもりである。これは単に疲れたということだろう。忘暮楼も教員の仕事に飽いてきている。
教員と乞食は「三日やったらやめられない」という。確かに、誰でもできる気楽な稼業である。学生には馬鹿にされるが、「センセー」と呼んでくれることで十分埋め合わせができる。それに、学生時代の勉強が100%役に立つ変わった仕事である。昨日の晩勉強したことでも、十年前から知っていたような顔が出来る。
この気楽さが、この稼業に「虚業」の臭いを付加する。豆ちゃんはこの臭いがいやなのである・・・と拝察している。

そもそも、小・中・高の教員という私たちの職業は、インド・キャラコの流行や紡績機械の発明や運河網の建設や「団結禁止法」の制定や石炭の大量消費や蒸気機関車の発明や年少労働者の大量発生と、同時に、しかも密接な関連を持って発生した。しかして、この中で今も残っているのは教員という職業だけで、ほかはすべてその歴史的使命を終えているのである。
そこで、忘暮楼は内心心配するのである。ひょっとしたら、本当は教員という職業もすでに歴史的使命を終えているのではないだろうか・・・と。
現在の中学校など、ないほうがいい代表的な制度である。子供の成長の阻害物になっているような気さえする。高校も似たようなものである。「置き勉」や「捨て勉」が、案外、学校が無用物であることを教えていたりして・・・
そう卑屈になることもないのであろうが、それほど自慢できることをやっているわけでもないのであろう。

昨日の酒が残っているせいかどうも暗い話になってしまうなあ。


1999年3月17日(水) 晴れ
マラソン職員会
一年生と二年生の進級認定会。記録的な長時間審議となった。
一年生が9時から13時まで。二年生が14時から20時まで。今年退職の先生はいい記念になったと言っておられた。会議の性質上、内容については ほとんど書けない。

長くなった原因としては、まず、発言の自由が保障されていることを挙げるべきであろう。これはこれでいいことだ。「発言の自由」は職場の民主化のための最初のハードルだから。
ただ、発言のなかに、単なる「報告」や単なる「感想」が混ざっていたのが混沌を助長したようだ。こう言う会議での発言は、「質問」か、「意見」かであるべきだ。
質問があれば「報告」が必要になることもあろう。しかし、単なる報告は、知っているぞ、と自慢しているにしか過ぎない。単なる「感想」はすべてが終わった後で出そう。
「意見」「質問」「感想」「報告」の交通整理が司会の腕の見せ所だが、その点ではイマイチだったと言うべきか。

二つ目にとにかく審議対象者がメチャクチャ多いこと。教科の成績の不合格者、欠席時間の多すぎるものが大量に出た。忘暮楼の持った二年生のクラスでも、不合格者こそなかったが、平均点が40点未満の生徒は三分の一もいた。それがこのクラスだけの特殊な事態ではなかったということだ。昨日は「置き勉」を取り上げたが、こちらは「捨て勉」というべきか。
認定会の終わりに校長が「認定会までの指導が不充分なのでは・・・」などといっていたが、それはないと思う。校長がそんなことを言っちゃいけない。ちょっと見識不足だ。
しかし、子供の変化に対応した「指導の方程式」が未確立であるのは間違いない。箸でもつかめない。棒でも引き寄せられない。そんな生徒が「激増」している。「箸」と「棒」以外の何かがいるのだがそれが見つかっていない。

そこで、三つ目は、指導原則についての意思統一ができていないということだ。
「美術館で酒を飲んで騒いでいる人は美術館から排除する」という方法を原則とするかどうか、この点が確かにあいまいなままであった。
なぜあいまいなままだったのか。それはここが美術館だときっちり規定していなかったからだ。ある職員は美術館だと言い、ある職員は体育館だという。またある職員はカラオケだと言い、他の職員は・・・・
ここでは、館長の姿勢が決定的だ。

学校でも校長の意思(「困難や反対が有っても,最後までやり抜こうという積極的な意向」---『新明解国語辞典』)が決定的だ。教員の意思形成の基本的推進力は校長だ。校長の意思と分析力と戦略立案能力と説得力だ。
校長が、四月初めまでに、学校づくりのための幹部の意思統一をしっかりしておく。幹部の意思統一が全体の意思統一に先行する。そうして、年度の初めから年度の終わりを明確に視野に入れてスタートする。そんな仕事が求められている。 そんな仕事こそが全体の意思を形成していく。


1999年3月16日(火) 晴れ
置き勉
早耳のK氏と「置き勉」を論じた。勉強道具を学校へ置いて帰ることを「置き勉」というのだそうだ。
鹿児島の中学校で教頭さんが、生徒たちの余りの「置き勉」が頭に来て、学校に放置してある教科書を「没収した」という事件があったそうだ。
試験中なのに、反省のない生徒には返さなかったと言うからすごいや。
なにやかや考えさせられる問題だ。

だいたい我々教員自身からして予習や復習のいらない授業をしているのだ。
授業で勉強をして、たっぷり補修を受けておれば十分だとかんがえているのだ。
そういえばそもそも勉強に予習復習は必要不可欠なものなのか?授業中にしっかり考えてくれれば十分なのではないか?

ありゃ、どうも「置き勉でも結構」、というほうへ傾いてしまいそうだなあ。

この1ヶ月ほど、凝っているのが、昼休みのwalkingと民謡のお稽古だ。
民謡のほうは昨日触れた。今日は昼休みのwalkingのはなしだが、これが大体1時間から1時間半程度。

職場のS先輩と近所の神社や山を歩き回っている。早耳のK氏が癌の疑いをかけられて手術をすると言うので、学校周辺の神社に手術の成功と良性であることを祈願したのである。
手術は無事終わり、癌でもなかったので現在はお礼まわりの最中である。
ところが、walkingの帰り道に帰宅する生徒たちに会うのである。そのため、3人の生徒を捕まえてしまった。天下の公道を喫煙しながら帰宅する生徒がいるのである。S先輩にいたっては、一人でwalkingしているとき、すでに2人とッ捕まえていたので、walkingをはじめてもう5人も捕まえたことになる。そのうえ実は取り逃がした無慮7,8人のグループがいたのである。
これではwalkingをしているのやら補導をしているのやらわからなくなってくる。
体調は良好、久しぶりに74kgをきったのだが、そのおかげで停学者が増えたわけだ。うーむ。


1999年3月15日(月)
通勤の車は民謡教室

今朝の計量でナント73.8kgが記録されたのだ。うれしーーい。
家庭禁酒、食事療法、waking(後ほどふれたい)のおかげだ。
1998年8月の終わりまでは、毎日酒で3合程度を飲んでいた。それを止めた。
今は、外でナニカゴトの時にシコタマのむが、その他の日は1滴も飲まない。

今日、八木節が歌えるようになった。聞き始めてから1週間以上かかった。
唄い出しがミミーラーシラシラなっているところからして難しかった。
これで一応歌える歌が、ソーラン節、道南口説き、ヤシャブロ節、サンサ時雨、佐渡おけさ、相川音頭(これはまだ稽古不充分)、花笠音頭、最上川舟歌(これもマアマアくらい)、祝い酒、新相馬節、津軽じょんがら節(ちょっとのりきれていない)、木曾節、小諸馬子唄、山中節、イヤの粉引き唄、正調刈干きり唄、鹿児島おはら節。
これらをいつか韓国の人たちに聞いてもらおうという胸の内である。