住友別子銅山に戦時動員された韓国人 |
愛媛県宇摩郡別子山村皿谷の朝鮮人墓と、村のお寺南光院の過去帳に残された朴順童さんなど3名の朝鮮人名が社会党と朝鮮総連が作った「朝鮮人強制連行真相調査団」の手で確認されたのは、1991年の夏であった。私たち松山・日本コリア協会はこの年以来、別子山村墓参を重ねながら住友別子銅山の朝鮮人労働者動員問題に関する調査を進めてきた。
私たちはその後の調査で、太平洋戦争開始の翌年の1943年4月、北海道鴻之舞金鉱から別子銅山へ245名の朝鮮人が移送された事実をつかんだ。別子銅山に働いた朝鮮人労働者の一部が私たちの前に姿を現わしたのである。私たちはその名簿が北海道開拓記念館所蔵の資料の中にあることを知ったが、ここが貧しい民間団体のつらいところ。北海道は遠過ぎる。お金があれば飛んで行けるのにと悔しい思いを味わわされた。 それでも1年ほどして道が開けてきた。まず1993年10月、釧路に住む大学時代の友人が私の懇願を容れてくれ、札幌まで1泊2日の調査旅行を2回も重ねて別子へ移送された労働者の名簿を正確に1字1字筆写してくれた。
1994年には私も北海道開拓記念館を訪れる機会を得、2日がかりでこれらの労働者の本籍と現住所を台帳から写し取った。全員が韓国忠清南道の出身の農民であった。
ここまでくれば現地での聞き取り調査が出来そうである。松山・日本コリア協会は、朝鮮を植民地として併呑した大日本帝国が崩壊して50年目に当たる1995年夏、韓国忠清南道へ調査団を派遣することにした。 今年3月からは、早々と聞き取り調査参加を決めた3名の会員が松山に住む韓国人の援助を受けて韓国語のヒアリングを勉強し始めた。みんな話すほうはある程度できるが肝心の聞くほうが苦手なのである。
6月に入ってこれらの資料をもとに韓国忠清南道26市町村に関係者の存否を照会する手紙を送った。もちろん韓国語でしたためた手紙である。
さて、こうして事態が進展するにつれて、この調査に関心をもつマスコミ人も現われ、「なんのためにこの調査を続けているのか。現地聞き取り調査のあとはどう展開するのか」などと正面から尋ねられることが多くなった。しかし、私たちにはこういうマクロな視点はほとんどなかったといってよい。
8月1日、「戦時動員実態調査団」と名づけた私たちの調査団が韓国に入った。ついに別子銅山の真実を探る仕事が始まったのである。総勢5名の調査団、某全国紙の記者も同行取材する。みな相当に緊張していた。
翌2日には忠清南道の道都テジョン市に移動し、午後からさっそく忠清南道の東部燕岐郡馬山面の山奥を訪ね、オ・ヨンノクハラボジ(73歳。ハラボジはお爺さんの意)とカン・ソンドンハラボジ(75歳)に会った。
調査活動を開始するやいなや、思い知らされたのが、山奥のまた奥のどんな小さな部落や1軒家も見落さぬ朝鮮総督府・大日本帝国の盤石の動員体制であった。大日本帝国は1910年の韓国併呑以来、30数年の年月を費やして朝鮮支配の体制を完全に作り上げていたのである。
さて、このお2人は1942年以前のいわゆる「募集」方式の時期に渡日された。
しかし、このように全く性格が違う2つの動員方法を「徴用」とか「強制連行」といった言葉で括ってしまうのは過酷性の誇張というべきである。新しい「神話」作りともいえるかも知れない。
例えば、カン・ソンドンハラボジは「日本行き」に応募した事情を次のように語ってくれた。
このようなケースを「強制連行」と呼ぶのは不適当であろう。これはまさしく出稼ぎである。これをも、朝鮮の農民を朝鮮で食えなくした元凶は日本なのだから「広義の強制連行」と考えるべきとの見解もあるのだけど、私はこの断定には無理があると思う。
調査旅行中に会ったある大学人が「『徴用』の調査をしているとたまに『楽しかった』と言う人もいましてねえ」と苦笑いしながら話しておられたのが私にはとても印象的だった。18歳から20歳までを外国で過ごした人がその経験を「楽しかった」と回顧したとしてもそれほど不思議ではないのかもしれない。
私たちの調査活動を全面的にバックアップしていただいたテジョンMBCテレビのイム制作部長は、我々の調査活動を密着取材する過程で「徴用」とは呼べない「単なる出稼ぎ」があったことが理解できるようになった、と語っていたが、相互理解というものはこのようにして深まっていくのだなあと一種の感銘を受けたのだった。
かといって、「募集」の全体を単なる出稼ぎに置き換えてしまうことも正しくない。
南光院過去帳にその名が記されている朴順童さんがその例である。彼は確かに自発的に住友の募集に応募したのだが、結婚直後だったこともあってかその後住友の召集に応じようとせず家を空けがちになった。するとある日突如、日本人1人と朝鮮人1人がやってきて、同居していた弟の朴順福さんを朴順童さんと認定して無理やり連れて行ったというのである。弟・順福さんは別子銅山余慶坑の坑内事故で兄・順童さんとして死んで行く。
1941年12月8日、マレー半島・ハワイ真珠湾同時奇襲を決行し、太平洋戦争に突入した。帝国内の労働力不足に対応するため、朝鮮総督府は朝鮮の農民を朝鮮内外の各企業へ効率的に配分する必要に迫られた。
8月4日は1日かけて忠清南道西部の舒川郡を訪ね、ク・ギョンフェハラボジ(76歳)、ク・チャンヒハラボジ(80歳)、クァン・マンジョンハラボジ(81歳)にお会いした。ここもまた大変な山間僻地であった。テジョン市から車で2時間以上かかる。この方たちはみな「官斡旋」で日本へ渡った。
2人のクハラボジは、ポプラの緑陰にしつらえてある大きなピョンサン(縁台)の上で涼しげに私たちを待っておられた。日本人が来るとの噂を聞いて集ってきた村人も木陰で様子を見ている。あとで聞くと、私たちは戦後初めてここを訪れた日本人だったのである。私たちも、ピョンサンの上にあげてもらい木陰の涼風と蝉時雨のなかでお2人の話を聞いた。ク・ギョンフェハラボジの証言。
「ある日、日本人と朝鮮人がやってきて日本へ行こうと言ってきた。それで結婚したばかりの15歳の妻を置いて日本へ行ったのだよ」
老人たちは日本行きを当然のことのように話す。「官斡旋」は「徴用」ではない。行きたくなければ当然拒否できたはずだが…。ク・ギョンフェハラボジは語る。
日本が韓国を併合したのが1910年、ク・ギョンフェハラボジが生まれたのは19
19年のことである。
こうして、韓国併合以来30数年間にわたって日本政府が朝鮮人に強いてきた恐怖政
治の歴史が、「官斡旋」という「公けの出稼ぎ仲介活動」を事実上の「強制連行」とし
て機能させていたのであった。
別子銅山での朝鮮人労働者の労働環境についても今回の聞き取り調査によってある程
度わかってきたことがある。
@日本人労働者と朝鮮人労働者との関係は概して良好であったとのこと。
紋別でも労働者が農家の畑からかぼちゃや野菜を失敬する時、朝鮮人にはやらせなか
ったという話がある。日本人が泥棒をして朝鮮人に分けたと言うのである。その代わり
朝鮮人労働者は医療切符や仕送りの朝鮮米などを日本人労働者に譲ってくれたという。
「真っ暗な職場でいがみ合っていては仕事にならない。その気になれば背中をちょっ
と押せばそれっきりという職場なのだし、お互い命をかけて働いているところでは心の
e+も強くなるものだ」という別子記念館館長さんのお話は説得力がある。
Aこれまで朝鮮人労働者の宿舎の存在がはっきりしていたのは、別子山村筏津の銅山
川沿いの宿舎、新居浜市立川の宿舎くらいだったが、そのほかに別子山村南光院川向かいの余慶
坑近くと東平にそれぞれ宿舎があったらしいことがわかった。新居浜市鹿森にもあった可能性が
ある。結局坑口ごとに朝鮮人宿舎があったと推定できそうである。
ハラボジたちの証言によるとそれらの宿舎には塀はなく、ましてや有刺鉄線などは施
されていなかったという。監視人は常時数名いたらしい。炭坑などの朝鮮人宿舎とはか
なり様子が違うようである。1部屋の収容人数は5、6人から10人くらい。
B仕事は3交替。仕事が引けると2年の契約が満了する日を夢見てひたすら寝ていた
という人が多かった。月に何度かは平野部の町に出て買物や酒を楽しんだ人もいた。信
用のある人はほぼ自由に外出できたらしい。
別子山では逃亡者がいなかった、という点もすべての証言が一致しているところであ
った。
C北海道鴻之舞金鉱の食事はかなりひどかったらしい。しかし、別子銅山は軍需産業
であったから特別の配給があったそうで、腹一杯というわけにはいかなかったが米の多
い飯が出たという。山菜なども取りに行けたという。
D賃金のかなりの部分を社内貯金させていたようだが、契約を延長したため解放の日
を日本で迎えた労働者はこれを受け取れないまま帰国したようである。この点は住友が
責任をもって調査し、しかるべき補償をしてほしいと思う。帰国の船は会社が無料で提
供したようである。
間の抜けた話であるが、こうやって彼らの故郷を歩いているうちに出発の時の予想通
り少しずつ自分たちのやっていることの意味が見え始めて来たのであった。
「和解」の旅としての聞き取り活動。「和解」という言葉は私たちの調査活動を知る
ためにテジョン市民の集いを用意してくれた韓南大学キム・ジョニョン先生のお話の中
に出てきた言葉である。両国民の「和解」のために日本人としてどんなことをしていく
つもりか、みんなに話してくれと要請されたのである。
松山・日本コリア協会というのは、正式には全国的な
国際友好団体日朝協会の松山支部である。思うところあって私たちは「朝」の代わりに
「コリア」の呼称を使っている。松山の会員は現在正味80人、この手のお固い(?
)団体としては結構繁盛しているほうかもしれない。
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