住友別子銅山に戦時動員された韓国人
       ---韓国忠清南道聞き取り調査---

 

※この文章は「えひめ雑誌」1995年9-10号(愛媛新聞社)掲載のレポート「拒絶なんかできなかった--別子銅山の朝鮮人労働者動員」の原稿です。1997年上梓の『住友別子銅山で<朴順童>が死んだ』の予告編といったところです。


 

 
●別子山村にあった朝鮮人の墓

 

 愛媛県宇摩郡別子山村皿谷の朝鮮人墓と、村のお寺南光院の過去帳に残された朴順童さんなど3名の朝鮮人名が社会党と朝鮮総連が作った「朝鮮人強制連行真相調査団」の手で確認されたのは、1991年の夏であった。私たち松山・日本コリア協会はこの年以来、別子山村墓参を重ねながら住友別子銅山の朝鮮人労働者動員問題に関する調査を進めてきた。

 
●朝鮮人労務者の名簿を入手

 

 私たちはその後の調査で、太平洋戦争開始の翌年の1943年4月、北海道鴻之舞金鉱から別子銅山へ245名の朝鮮人が移送された事実をつかんだ。別子銅山に働いた朝鮮人労働者の一部が私たちの前に姿を現わしたのである。私たちはその名簿が北海道開拓記念館所蔵の資料の中にあることを知ったが、ここが貧しい民間団体のつらいところ。北海道は遠過ぎる。お金があれば飛んで行けるのにと悔しい思いを味わわされた。

 それでも1年ほどして道が開けてきた。まず1993年10月、釧路に住む大学時代の友人が私の懇願を容れてくれ、札幌まで1泊2日の調査旅行を2回も重ねて別子へ移送された労働者の名簿を正確に1字1字筆写してくれた。
 なんとこの名簿の中に冒頭に紹介した朴順童さんの名が見つかり、彼の経歴の一端が明らかになったのであった。

 
●全員が韓国忠清南道出身

 1994年には私も北海道開拓記念館を訪れる機会を得、2日がかりでこれらの労働者の本籍と現住所を台帳から写し取った。全員が韓国忠清南道の出身の農民であった。
 地図に落としてみると農民の出身地は燕岐郡、舒川郡、礼山郡の3つの郡に集中しており朝鮮総督府の「割当て」動員の実態がはっきり見て取れた。

 ここまでくれば現地での聞き取り調査が出来そうである。松山・日本コリア協会は、朝鮮を植民地として併呑した大日本帝国が崩壊して50年目に当たる1995年夏、韓国忠清南道へ調査団を派遣することにした。

 今年3月からは、早々と聞き取り調査参加を決めた3名の会員が松山に住む韓国人の援助を受けて韓国語のヒアリングを勉強し始めた。みんな話すほうはある程度できるが肝心の聞くほうが苦手なのである。


●生存者が見つかった

 6月に入ってこれらの資料をもとに韓国忠清南道26市町村に関係者の存否を照会する手紙を送った。もちろん韓国語でしたためた手紙である。
 2週間ほどすると回答が届き始め、結局9市町村からの回答によって4名の方の生存が確認できた。しかし、「死亡」や「不明」という文字がずらっと並んだ回答のほうが多かった。1カ月前に死亡というのもある。胸が痛む。残念ながら調査を始めるのが10年ほど遅かったようである 。

 
●まず歩き始めよう

 さて、こうして事態が進展するにつれて、この調査に関心をもつマスコミ人も現われ、「なんのためにこの調査を続けているのか。現地聞き取り調査のあとはどう展開するのか」などと正面から尋ねられることが多くなった。しかし、私たちにはこういうマクロな視点はほとんどなかったといってよい。
 1993年の別子山村朝鮮人墓地参拝のおりに、ある女性参加者が「この墓に眠っている人をこのまま放っておいたのでは私たちはまた罪を重ねることになるのではないか」と墓参の感想を語った。実はこの言葉が私たちの調査活動を励まし続けてきたのである。放って置けないから何かをする、この辺りが調査に取り組む私たちの正直な気分だったのである。
 ともかくも、朝鮮人労働者たちの故郷へ行って、このお墓について、また当時の状況について生存者から直接お話を聞いてみたい。どんな価値があるかはわからないが、まずは歩き始めよう。そして歩きながら考えよう。

 
●山奥のまた奥の…

 8月1日、「戦時動員実態調査団」と名づけた私たちの調査団が韓国に入った。ついに別子銅山の真実を探る仕事が始まったのである。総勢5名の調査団、某全国紙の記者も同行取材する。みな相当に緊張していた。

 翌2日には忠清南道の道都テジョン市に移動し、午後からさっそく忠清南道の東部燕岐郡馬山面の山奥を訪ね、オ・ヨンノクハラボジ(73歳。ハラボジはお爺さんの意)とカン・ソンドンハラボジ(75歳)に会った。
 オ・ヨンノクハラボジのお宅は、車嶺山脈の山奥の小さな部落にあった。テジョンからは車で1時間かかる。砂利道の道端にはホウセンカの花が美しく咲いていた。カン・ソンドンハラボジのお宅はここからまた50分以上走らねばならなかった。

 調査活動を開始するやいなや、思い知らされたのが、山奥のまた奥のどんな小さな部落や1軒家も見落さぬ朝鮮総督府・大日本帝国の盤石の動員体制であった。大日本帝国は1910年の韓国併呑以来、30数年の年月を費やして朝鮮支配の体制を完全に作り上げていたのである。


●「募集」と「徴用」

 さて、このお2人は1942年以前のいわゆる「募集」方式の時期に渡日された。
 韓国では戦時動員の問題を「徴用(チンヨン)」と呼び習わしている。「徴用」は徴兵と同じで拒否すれば罰せられる。一方「募集」方式は本人が応募しなければなんの関係も生じないのである。日本のマスコミや民間団体も戦時中の朝鮮人動員を「強制連行」と総称する傾向がある。

 しかし、このように全く性格が違う2つの動員方法を「徴用」とか「強制連行」といった言葉で括ってしまうのは過酷性の誇張というべきである。新しい「神話」作りともいえるかも知れない。
 私たちは募集期の実態がどのようなものであったかを正確に知りたかった。それが両国民の相互理解の前提だと思うからである。調査団の名称に「強制連行」という語を使わなかったのはこんな事情があった。

 
●その年は凶作で…

 例えば、カン・ソンドンハラボジは「日本行き」に応募した事情を次のように語ってくれた。
 「その年は凶作でしてね。お金がなくて出稼ぎに出ないわけにはいかなかったのですよ。2年間契約で日本へ行きました」
 この年が凶作でなかったら応募する必要がなかったというのである。そして別子銅山に移ってまもなく契約が満了し帰国している。

 このようなケースを「強制連行」と呼ぶのは不適当であろう。これはまさしく出稼ぎである。これをも、朝鮮の農民を朝鮮で食えなくした元凶は日本なのだから「広義の強制連行」と考えるべきとの見解もあるのだけど、私はこの断定には無理があると思う。
 「日本にもいい人もいれば悪い人もいる。韓国でも同じだよ。あの頃はあんな時代だったんだからしょうがないよ」
 同行取材したテジョンMBCテレビのクルーが日本への怒りの声を引き出そうと、いろいろ話しかけるが返ってくる答えは淡々としている。

 
●単なる出稼ぎもあった…

 調査旅行中に会ったある大学人が「『徴用』の調査をしているとたまに『楽しかった』と言う人もいましてねえ」と苦笑いしながら話しておられたのが私にはとても印象的だった。18歳から20歳までを外国で過ごした人がその経験を「楽しかった」と回顧したとしてもそれほど不思議ではないのかもしれない。

 私たちの調査活動を全面的にバックアップしていただいたテジョンMBCテレビのイム制作部長は、我々の調査活動を密着取材する過程で「徴用」とは呼べない「単なる出稼ぎ」があったことが理解できるようになった、と語っていたが、相互理解というものはこのようにして深まっていくのだなあと一種の感銘を受けたのだった。


●しかし

 かといって、「募集」の全体を単なる出稼ぎに置き換えてしまうことも正しくない。
 どのみち、戦争を支える軍需産業への政府の必死の支援、そして軍需企業における労働力の絶対的不足が要因となった「募集」である。朝鮮の農民を日本の軍需企業へ投入することが至上命令であるから、いったん応募した農民は委細かまわず日本へ連れていく。

 南光院過去帳にその名が記されている朴順童さんがその例である。彼は確かに自発的に住友の募集に応募したのだが、結婚直後だったこともあってかその後住友の召集に応じようとせず家を空けがちになった。するとある日突如、日本人1人と朝鮮人1人がやってきて、同居していた弟の朴順福さんを朴順童さんと認定して無理やり連れて行ったというのである。弟・順福さんは別子銅山余慶坑の坑内事故で兄・順童さんとして死んで行く。
 朴順童さんは一度も日本へ渡ることなく祖国で死去したという。長兄・故朴順龍さんの夫人キム・ウオンスクさん(十3歳)が当時の事情を詳しく話してくれたのであった。彼女の息子たちも母の口から初めて聞かされた伯父たちの秘話に耳を傾けていた。

 
●軍隊式の連行組織

  1941年12月8日、マレー半島・ハワイ真珠湾同時奇襲を決行し、太平洋戦争に突入した。帝国内の労働力不足に対応するため、朝鮮総督府は朝鮮の農民を朝鮮内外の各企業へ効率的に配分する必要に迫られた。
 この必要に応じるために人集めも「募集」方式から「官斡旋(朝鮮総督府が申請のあった企業に労働者を斡旋する)」方式に変えられた。「募集」方式での人員確保の成否は基本的には募集要員の腕にかかっていたが、新方式では行政の末端にある面長(村長)の責任で人数を確保させることにした。また確保した人員は出身地を基本にして軍隊式の組織を作って連行する。このやりかたで80%台にのぼっていた逃亡者が20%台に減ったとの報告もある。

 
●拒絶なんか思いもつかなかったよ…

 8月4日は1日かけて忠清南道西部の舒川郡を訪ね、ク・ギョンフェハラボジ(76歳)、ク・チャンヒハラボジ(80歳)、クァン・マンジョンハラボジ(81歳)にお会いした。ここもまた大変な山間僻地であった。テジョン市から車で2時間以上かかる。この方たちはみな「官斡旋」で日本へ渡った。

 2人のクハラボジは、ポプラの緑陰にしつらえてある大きなピョンサン(縁台)の上で涼しげに私たちを待っておられた。日本人が来るとの噂を聞いて集ってきた村人も木陰で様子を見ている。あとで聞くと、私たちは戦後初めてここを訪れた日本人だったのである。私たちも、ピョンサンの上にあげてもらい木陰の涼風と蝉時雨のなかでお2人の話を聞いた。ク・ギョンフェハラボジの証言。

 「ある日、日本人と朝鮮人がやってきて日本へ行こうと言ってきた。それで結婚したばかりの15歳の妻を置いて日本へ行ったのだよ」
 樹齢数百年とかいう銀杏の大樹がそびえる丘に住むクァン・マンジョンハラボジの証言。
 「うちは畑がたくさんあったので出稼ぎに行く必要はなかった。しかし、日本人と朝鮮人の2人連れがやってきて日本へ連れていかれたのだよ」

 老人たちは日本行きを当然のことのように話す。「官斡旋」は「徴用」ではない。行きたくなければ当然拒否できたはずだが…。ク・ギョンフェハラボジは語る。
 「拒絶なんか思いもつかなかったよ。私が生まれるよりずっと前から朝鮮の主権者は日本人だったんだよ。日本人は姿を見るだけでも怖かったよ」
 「日本人から言われたら従わなければならないとみんな思っていた。だから仕方がなかったのだ」

 日本が韓国を併合したのが1910年、ク・ギョンフェハラボジが生まれたのは19 19年のことである。

 こうして、韓国併合以来30数年間にわたって日本政府が朝鮮人に強いてきた恐怖政 治の歴史が、「官斡旋」という「公けの出稼ぎ仲介活動」を事実上の「強制連行」とし て機能させていたのであった。

 
●日本人労働者と韓国人労働者

 別子銅山での朝鮮人労働者の労働環境についても今回の聞き取り調査によってある程 度わかってきたことがある。

 @日本人労働者と朝鮮人労働者との関係は概して良好であったとのこと。  紋別でも労働者が農家の畑からかぼちゃや野菜を失敬する時、朝鮮人にはやらせなか ったという話がある。日本人が泥棒をして朝鮮人に分けたと言うのである。その代わり 朝鮮人労働者は医療切符や仕送りの朝鮮米などを日本人労働者に譲ってくれたという。

 「真っ暗な職場でいがみ合っていては仕事にならない。その気になれば背中をちょっ と押せばそれっきりという職場なのだし、お互い命をかけて働いているところでは心の e+も強くなるものだ」という別子記念館館長さんのお話は説得力がある。

 
●宿舎のようす

 Aこれまで朝鮮人労働者の宿舎の存在がはっきりしていたのは、別子山村筏津の銅山 川沿いの宿舎、新居浜市立川の宿舎くらいだったが、そのほかに別子山村南光院川向かいの余慶 坑近くと東平にそれぞれ宿舎があったらしいことがわかった。新居浜市鹿森にもあった可能性が ある。結局坑口ごとに朝鮮人宿舎があったと推定できそうである。

 ハラボジたちの証言によるとそれらの宿舎には塀はなく、ましてや有刺鉄線などは施 されていなかったという。監視人は常時数名いたらしい。炭坑などの朝鮮人宿舎とはか なり様子が違うようである。1部屋の収容人数は5、6人から10人くらい。


●契約満了の日を夢見て…

 B仕事は3交替。仕事が引けると2年の契約が満了する日を夢見てひたすら寝ていた という人が多かった。月に何度かは平野部の町に出て買物や酒を楽しんだ人もいた。信 用のある人はほぼ自由に外出できたらしい。

 別子山では逃亡者がいなかった、という点もすべての証言が一致しているところであ った。

 
●食事

 C北海道鴻之舞金鉱の食事はかなりひどかったらしい。しかし、別子銅山は軍需産業 であったから特別の配給があったそうで、腹一杯というわけにはいかなかったが米の多 い飯が出たという。山菜なども取りに行けたという。

 
●社内貯金?

 D賃金のかなりの部分を社内貯金させていたようだが、契約を延長したため解放の日 を日本で迎えた労働者はこれを受け取れないまま帰国したようである。この点は住友が 責任をもって調査し、しかるべき補償をしてほしいと思う。帰国の船は会社が無料で提 供したようである。

 
●「和解への旅」

 間の抜けた話であるが、こうやって彼らの故郷を歩いているうちに出発の時の予想通 り少しずつ自分たちのやっていることの意味が見え始めて来たのであった。
 1つだけ挙げておこう。

 「和解」の旅としての聞き取り活動。「和解」という言葉は私たちの調査活動を知る ためにテジョン市民の集いを用意してくれた韓南大学キム・ジョニョン先生のお話の中 に出てきた言葉である。両国民の「和解」のために日本人としてどんなことをしていく つもりか、みんなに話してくれと要請されたのである。
 自分の義弟たちの不幸をパンソリのように美しく哀しく語ってくれた朴順童さんの兄 嫁キム・ウオンスクさんは翌日テジョンMBCテレビ局へ「日本の方に話をきいてもら い昨日の晩は嬉しくて眠れなかった」という電話をかけてこられたそうである。
 たった15で結婚し、まもなく新郎を日本へ連れて行かれたク・ギョンフェさんの奥 さんは「いままでずうっと日本人は大嫌いだったが、今日皆さんが主人の話を熱心に聞 いてくれていっぺんに日本人が好きになりました」と言ってくれた。
 これらの感動や見直しの1つ1つを私はキム・ジョニョン先生にならって「和解」と 呼びたい。そして私たちが大日本帝国崩壊50周年の記念すべきこの夏、遅まきながら
「和解への旅」の第1歩を踏み出せたことを喜びたい。(1995)


追記 松山日本コリア協会とは?  

 松山・日本コリア協会というのは、正式には全国的な 国際友好団体日朝協会の松山支部である。思うところあって私たちは「朝」の代わりに 「コリア」の呼称を使っている。松山の会員は現在正味80人、この手のお固い(? )団体としては結構繁盛しているほうかもしれない。  
 国際友好運動というと大抵、相手国の政府機関を窓口にしているものであるけど、私 たち松山・日本コリア協会は相手国の政権の動向に左右されない友好運動を、というこ とで「民衆レベルでの友好親善運動」を目標に掲げてきた。そういう意味で私たちの会 に韓国・朝鮮語の勉強をしている会員が結構いるのが自慢の1つである。調査当時の会長・佐々木 泉氏からして韓国国際放送(KBS)の歌謡競演大会(もちろん原語で歌うのである) でグランプリを2度も受賞しているつわものである(尾上 1998-4)。

 



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