ソウル南山に残る神社跡

日本帝国時代の韓国にはたくさんの神社が作られ、日本人のアイデンティティの保持・強化のため、また韓国人の体と心の支配のために使われていました。松山・日本コリア協会は去年から韓国の神社の実態を知るための活動を始めました。

韓国での自立的な歴史研究は、日本の植民地主義的な歴史学の押し付けや朝鮮戦争の混乱で停滞を余儀なくされました。植民地時代は大学を出てもハングルも知らなければ自国の歴史も知らないといった状況だったといいます。

研究者たちが落ち着いて自分の国の歴史の研究が出来るようになったのは1954年頃からだそうですから、研究はまず量的にいってもまだ不充分な状態であるわけです。したがって、日本帝国時代の神社問題など今日性の希薄な分野の研究はこれからといった状況だそうです。私たちの調査も少しぐらいはお役に立てるかもしれませんね。

以下、昨年(1998年8月)の調査旅行の折の写真です。

朝鮮総督府の全景 朝鮮総督府全景

 ロッテデパートの通りの舗道でたまたま大韓民国建国(1948年8月15日)50周年記念の野外写真展をやっていました。その中の一枚で、日本帝国崩壊直後の朝鮮総督府の建物です。光化門がありませんね。

安重根記念館前の階段この石段は違う

 南山の安重根義士記念館前の階段です。

この階段を上ったところに朝鮮神宮があったために、時々この階段が昔の朝鮮神宮の階段だと紹介されていることがありますが、これは解放後の設置で、朴大統領時代のもののようです。

唯一残っている朝鮮神宮の遺物朝鮮神宮唯一の遺物

 南山にある朝鮮神宮の遺跡を探してみましたがほとんど残っていません。

現存する遺物はこの写真にある、将棋のこまをさかさまにしたような三つの石だけだそうです(南山公園管理事務所の係員の説明による)。この石は、安重根義士記念館前の広場と植物園をつなぐ石段の右の植え込みにあります。

リラ初等学校の黄色い建物リラ初等学校

 先ほどの安重根記念館前の階段の写真に見える道路は、朝鮮神宮の裏参道にあたる道です。あの道を左へ下っていくと右側に学校が現れます。そこが崇義学園の崇義女子専門大学です。崇義学園はもともと平壌にあった学校ですが、朝鮮総督府の神社参拝強制に抗して廃校にしたのです。解放後、京城神社があったこの場所を選んで学校を再建したのでした。江戸の敵を長崎で、といった趣ですね。

 写真の黄色い建物が崇義女子専門大学のとなりにあるリラ初等学校です。このまままっすぐ上がって左に折れてさらに進むと児童施設「南山院」と校庭があります。そこが日本帝国時代の乃木神社のあったところです。

灯篭のベンチはこんなところいある乃木神社境内あと

  ここが元・乃木神社の境内です。正面のイチョウの木の向こう側が先ほどのリラ初等学校の黄色い校舎です。向かって右側が「南山院」で、この広場は「南山院」の運動場となっています。

さて、正面のイチョウの木の下、パラソルのあるテーブルと椅子の奥の暗いところに、石で作られたテーブルとベンチが見えますね。これが実は乃木神社の灯篭なのでした。

乃木神社の石灯籠の台座部分これが乃木神社遺物

  これが乃木神社の石灯籠です。

ところで乃木希典は、朝鮮人祖先とする家系で長州藩の『藩中略譜』には、乃木家の祖先は「生国朝鮮人従太閤吉田兵部殿ニオ預ケ」とあります。乃木家の祖となった朝鮮人は、秀吉の朝鮮侵略の際に捕虜となったのですが、その子孫である乃木希典は、朝鮮支配を争う二つの侵略戦争で功を立てました。そして死後は、南山に鎮座する植民地事業護持神に祭り上げられたわけです。

校庭のあちこちで・・・1これも・・・

「南山院」の校庭に残る神社の遺物は、上のテーブルとベンチだけではありません。この写真もそのひとつ。

校庭のあちこちで・・・2これも

 これもそうです。玉垣か石段かに使われたものでしょう。向こう側にも灯篭の台座のようなものが写っています。

こういうものをじっくり見つめつつ、日本の歩んできた道を思い、日本のあるべき姿をつかみたいものです。


上記の崇義学園の不参拝問題については「新陽里そして栗里の学びの道--平3中 望校の追遠史--」(ヌティナム社1998)および「十五年戦争極秘資料集」(不二出版)の「朝鮮思想運動概況」に関連する記述がありましたので紹介します。


「新陽里そして栗里の学びの道--平3中 望校の追遠史--」(ヌティナム社1998)

・・・1936年1月平安南道知事である安武はミッションスクールである崇実専門学校校長であり崇実中学校校長職を兼務していたShannon Mc-Cune(韓国名:尹温山)に神社参拝に対する学校の明白な対策を確答してほしいとした。

学校側が引き続き神社参拝を拒否すると、安武平安南道知事は、職権を発動して、1月20日、Mc-Cune校長は言うまでもなく、崇義女子高等普通学校の鄭益成校長代理と順安の義明学校校長に対しても、校長認可を取り消し、ミッションスクールの神社参拝問題に初めて強硬方針で対処することになった。

1937年2月に米国の南長老教会の宣教当局は神社参拝を容認してまで、彼等が経営する学校を維持することは出来ないとする方針を打ち出し、光州のスンイル中学とスピア女学校、木浦のヨンフン中学とチョンミョン女学校、その他、全州、順天などのミッションスクールを自主閉校する処置を取った。

一方、米国北長老教会宣教当局も彼等が経営する平壌の「三崇」(崇実専門、崇実中学、崇実女学校)の三校を閉校させることにした。《忘暮楼訳出》

「十五年戦争極秘資料集」(不二出版)の「朝鮮思想運動概況」

---1937年2月、平安南道私立崇義女学校で繰り広げられた4週間にわたる同盟休校2間する記事です。参加者は363名--- 

神社不参加問題ニ依リ校長ヲ罷免セラレタルニ同情

校長代理米人スノークカ神社不参拝問題ニ関シ当局ニ不参拝ノ回答ヲナセルタメニ二月二十二日校長代理ノ認可取消トナリ同日生徒ハ号泣シ、スノーク万歳三唱ノ上皈宅爾来約四週間百名内外(三分ノ一)欠席二十四日ノ如キハ一年乙組全員ハ授業ヲ受ケス約一時間号泣ス


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