お米で困っていた昨年3月に書いた駄文です。お酒の好きな方、読んで下さいね。知ったかぶりして書いてありますが太っ腹で読んで下さい(*^^*)。

 
●秘米“亀の尾”との遭遇 

さて、小生、このたびご存じ松山・日本コリア協会のとある学習会で「定住外国人と参政権」と題するレポートを引き受けてしまい、珍しく机上にその筋の書籍を積み上げることになったのですが、ぼんやりしている間に面白い本がたくさん出版されていたようで、あの本この本と漁り読むうちに脱線に継ぐ脱線、肝心のレポートのまとまる見込みは次第に薄くなってきます。

きわめつきが飯沼二郎著『朝鮮総督府の米穀検査制度』(未来社)でありました。参政権とはまったく関係の本です。職場の先輩の勧めでとりあえず仕入れていた本。この本が妙に面白かった。この本のなかで、みなさん、『夏子の酒』のファンならだれでもご存じの、あの「龍錦」のモデルになった、秘米『亀の尾』にめぐりあったのですよ。

『亀の尾』はコシヒカリやササニシキの親筋にあたる品種なんですね。北条市の農事試験場で教えてもらった系図をご紹介しておきましょうか。
    亀の尾
     ↓
  母 陸羽20号   --------------  父 亀の尾4号
      ↓
  母 森田早苗  ----------------   父 陸羽162号
      ↓
母 農林22号  ---------------    父 農林1号
      ↓
   コシヒカリ

  母 亀の尾   --------------   父  アサヒ
      ↓
 母 農林8号   -------------- 父 東北24号
     ↓
 母 ハツニシキ  -------------- 父 ササシグレ
     ↓
   ササニシキ

 
●日本人は朝鮮でなぜ頑丈な建物を建てたのか

 ご承知のように日本は1910年についに韓国を自国の領土として飲み込んでしまい、ここを植民地とします。植民地というのは、植民をする土地ということなんですがわかりますか。ちょいと辞書をひいてみますと、「ある国の国民または団体が本国と政治的従属関係にある土地に、永住の目的で移住・開拓し、経済的活動をすること。また、その移住民」(ご存じ『広辞苑』より)とあります。

併合後韓国は勅令によって、「韓国」という国としての名称の使用は廃され、「朝鮮」という『土地の名称』を押し付けられます。そしてソウルでは、『永住』あるいは永久支配を見通して、朝鮮総督府の庁舎、朝鮮銀行、西大門の刑務所、三越百貨店、丁字屋百貨店、朝鮮神宮などなどと永久使用の可能な壮大で頑丈な建物を次々と建て、街の名前も明治町、御成町、桜井町、弁天町、浜町と改名していったのです。

当時の朝鮮人はこの朝鮮総督府の建物を見あげることすら禁止されていたそうで、戦後この建物が韓国国立中央博物館として活用されてきたことはご存じのとおり。これが今回金泳三大統領の方針で解体されることになったそうですね。

建物というものは思想の表現ですね。「成り金の思想」はそれにふさわしい豪邸を磨き上げるでしょうし、「清貧の思想」もまたそれにふさわしい庵を編むことでしょう。この朝鮮総督府の建物の壮麗さ、 堅固さはさる写真家の言の通り、 ほかならぬ「朝鮮の永久支配」という大日本帝国の政治思想の表現であったわけですから、壮麗堅固な暴力団事務所と同じようにさっぱりと解体されるべきなのでしょう。  


●日本人地主が村にやって来ると・・・

 さて、日本が併合後まずやったことは、植民をするための土地作りです。といっても、朝鮮の土地はすべて朝鮮人のものであったわけですから、 土地を作るためには朝鮮の農民から土地を取り上げ、「不用になった」小作人を村から追い出さなければなりません。

そして1910年代にすすめられた『土地調査事業』がこのための政策だったのです。この事業の内容をレポートする余裕はありませんが、『日本人地主一家族が村に入ってくると、朝鮮人五家族が村からでていかなければならなかった』という状況だったといいますからおおよそ想像出来ます。

さて、ここからはいよいよ『朝鮮総督府の米穀検査制度』に基づくレポートとなりますが、当時の朝鮮農業は基本的には自給自足経済で、畑作と米作が中心。特に「輪作(いろんな作物をローテイシヨン栽培する技術)」と「間作(一つの畑で複数の作物を同時栽培する技術)」が発達していたそうで、牛で鋤を引く技術は派遣された日本人技術者も舌をまくほどの水準だったといいます。

『わが農業革命』(中公新書)の著者兼坂祐さんが1986年韓 国を訪問したときの印象記にも次のような記述があります。韓国で は現在も間作の伝統は健在のようです。 「最初に釜山空港に着陸しました。その近所の水田は日本と同様の、10アール割りの区画整理が整然と出来ていました。我が国の景色と違うのは田の畦には全部大豆が育っていたことです。我々が子供の時分は、日本のたんぼの畦は全部大豆だったでしょう。その大豆があったので驚きました。」

しかし、チュングン(春窮)、ポリッコゲ(麦の峠)という韓国語があるように、春の端境期には農家自身が食糧不足に苦しめられることもあったそうです。

 


●田植えがなかった朝鮮の米作

 さて朝鮮の稲作の概略ですが、タネモミは5月中下旬に畑(!)の畝の凹部にまかれます。畑ですから雑草がどんどん生えます。除草労働は水田よりうんと過重です。7月中下旬になると雨がじゃんじゃん降り始めます。この雨水を溜めて畑を水田に変身させます。そして10月9日寒露のころ収穫する(西部地域の場合)。

日本の稲作と比べると、苗代とか田植えというシーンがありませんね。これは気候の違いからくるものです。韓国では、早い話が雨は夏降るのです。梅雨前線は日本でひと仕事もふた仕事もしたあとで韓国に上陸します。日本の梅雨入りよりほぼ一月遅れて韓国の梅雨入りとなります。そして梅雨前線は長旅のつかれも見せず、今度は韓国の野に山に土砂降りの雨をもたらすのです。しかし、春はあまり降らないようです。

かってある早春、北陸出身の畏友K氏とともに韓国の農村を歩いたことがあります。小生はあたりの緑の少ないさびしい景色を見ながら、「北陸の早春のたんぼの風景は韓国のそれとどう違うか」と尋ねました。この質問にK氏が即座に「畦やたんぼに生える草のチョボチョボとしたようすなどはほとんど同じだが、北陸の土は水分をたっぷりと含んでいるいと思う。」と答えてくれたことを思い出します。

実はこの指摘が朝鮮の稲作を見るときのポイントであったのです。春の雨の少なく、潅漑施設も十分でなかった当時の朝鮮では、たっぷり水をたたえた田に苗を植え、草取りの労力を削減するといった方法は取れるはずもなかったのです。ともかくも朝鮮の農村は、チュングン(春窮)を挟みながらも、こういう方式で稲作を営み自給自足を基本とする農業を進めてきたわけです。   

 


●金儲けのための米作り

  しかしながら、日本から掃き出されるようにこの地にやってきた植民たちはこのような農業で満足することは出来ません。新しい地主としてここで一旗揚げ、永住の根拠地とする算段ですから自給自足経済ではこまります。儲かる農業、貨幣経済の農業に転換しようとします。

そのためには、日本人の好む品種の米を作り、日本に輸出出来るようにしなければなりません。朝鮮総督府も朝鮮を「立派な」植民地に仕上げるために、優良品種の普及、土地改良や水利事業の推進を強行します。地域毎に品種を定め、苗代で苗を作らせ水田に縄をひいて真っすぐに植えさせる。これを警察の手もかりながら強権的に進めていきます。

この推奨優良品種が『朝鮮総督府の米穀検査制度』91ページからその特性とともに紹介されています。概略以下のとおり。(1)早神力ソウシンリキ:少肥で収量多し(2)穀良都コクリョウミヤコ:玄米大粒、心白発達、食味良好、酒米に適す。 (3)多摩錦タマニシキ:玄米中粒、光沢よし、食味良好(4)都ミヤコ:玄米やや大粒、有心白(5)錦ニシキ:大粒、心白発達、酒米としても用いられる(6)雄町:大粒、心白発達、酒米としても。(7)赤神力セキシンリキ:倒伏少なく、収量多し。(8)日の出:玄米中粒、少肥で多収。

 


●いよいよ『亀の尾』の登場

 そして、おまたせしました。次の(9)が『夏子の酒』の『龍錦』のモデル『秘米亀の尾』でございます。これは、今回のレポートの主人公ですから、 全文紹介いたしましょう。

『亀の尾』「大正3(1914)年平安北道種苗場が、秋田県より種子をいれ試作ののち大正6(1917)年に推奨品種に指定したが、その他西北朝鮮の各道および江原、京畿道においても奨励せられ、昭和8(1933)年には全朝鮮の作付は1万町歩をこす面積になったが、肥料の増施に伴って、これを最高として激減し、継ぎの陸羽132号と交代したことは、日本の東北地方と軌を一にしている。早稲、平坦水田においては多収である。玄米は中の大、品質がよく、ことに食味にすぐれ、また酒米としても利用された。ただし稲熱病に弱いため、金肥の施用増加とともに急激に面積を減じたのである。」

とこういう米でありました。肥料に弱い米だったようですね。       

 


●『亀の尾』と関東大震災

さて大正12(1923)年の関東大震災は官憲のデマ操作による大衆的朝鮮人・社会主義者虐殺という恐ろしい事件を産んだのですが、実は朝鮮産米の東京進出の契機ともなったのです。

『朝鮮総督府の米穀検査制度』にはその辺の事情を次のように説明しています。

「東京朝鮮米が大量に進出するようになったのは、1923年の関東大震災後のことである。それまでは、朝鮮米には赤米や石が多くて、人間の食う米ではないようにいわれていた。ところが、大震災のさいに、東京ではひじょうに米が不足し、政府の手によって市民に食糧が配給されたときに、朝鮮米が配給用として大量に用いられ、それが市民が一般に朝鮮米を味わう契機になった。石や赤米さえなければ、使えるこめだと一般に認識されるようになり、それと同時に朝鮮においても、東京市民に好かれるびょうに改良や精選がおこなわれ、東京市場における朝鮮米の消費がのびるようになったのである」(151ページ)

そして、それらの朝鮮米のなかでも北朝鮮産のわが『亀の尾』こそが東京人の好みに合い、日本一といわれる庄内米をも凌駕するほどの声価を高めたとのこと。味が甘いこと、搗いても減らないというのが魅力だったようです。  

 


●日本の都合で決める朝鮮の米穀政策

 当時東京に300万石の朝鮮米が入っているがその主たるものは皆『亀の尾』であったと言いますからたいしたものです。そしてついには日本米が売れなくなり、朝鮮米との対抗上値下げしなければならない程になってしまいます。

1929年には日本政府は日本米の価格が安すぎることの対策として、臨時米穀調査会を設置し、朝鮮米と台湾米の日本輸入数量をどのようにして少なくするかを論議するところまでおいこまれたのです。

こうして1920年代の産米増殖計画は中止されるのですが、1937年の日中戦争の勃発とともにまたしても朝鮮米の日本輸入を歓迎する情勢となります。まさに「朝鮮における米穀政策は、終始、日本の都合によっておこなわれ」(169ページ)たのでした。

最後に平安北道の場合の優良品種の普及の推移を示しておきましょう。

    年度   推奨優良品種 普及率(作付け面積中の比率)
   1914年    『日の出』        0.1%
   1920年    『亀の尾』       39.2%
   1930年    『亀の尾』       71.7%
   1940年   『陸羽132号』       96.7%

この数字をみても朝鮮の農村が、日本から来た植民たち、あるいは植民地主義者たちの思惑どおりにすっかり変身させられているようすがうかがえますね。

こうして生産された米が日本に輸出されていくのですが、この輸出によってなんと朝鮮人の米消費量が削られていくのです。

次の表を見て下さい。

朝鮮の米穀生産・輸出・消費量

年次 日本に輸出(千石) 朝鮮人一人当りの米消費量(石) 日本人一人当りの米消費量(石)
1912 2910 0.7724 1.068
1917 1296 0.7200 1.126
1920 1750 0.6301 1.118
1922 3316 0.6340 1.100
1924 4722 0.6032 1.122
1926 5429 0.5325 1.131
1928 7405 0.5402 1.129

『朝鮮総督府の米穀検査制度』 10p

朝鮮の米が、朝鮮人の食卓から日本人の食卓へ奪い取られていく過程が読み取れるではないですか。これは 『飢餓輸出』以外の何物でもありません。そしてこれこそが植民地経営ということなのでしょう。

ブランド米ならぬブレンド米の弁当をたべながら、心配するのです。米輸入自由化がタイをはじめとするアジア諸国に再び『飢餓輸出』を強いることにな可能性があるのではないか、と。 1994/3/15 忘暮楼

 

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