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松山・日本コリア協会松原満紀事務局長と忘暮楼との共著『住友別子銅山で<朴順童>が死んだ』(1989年度愛媛新聞出版文化賞受賞)所載の年表で、松原満紀氏が作成したものです。HPに転載させていただくに当り、見出し、記載事項等に忘暮楼が若干の補筆を加えました。
凡例(参考文献)
(顛末)は『住友別子鉱山労働運動の顛末』住友別子鉱山株式会社労働課著作兼発行・1929(昭和4)年
(特高)は『特高月報』1930(昭和5)年〜1944(昭和19)年 内務省警保局保安課 復刻版・1973年
政経出版
(社会)は『社会運動の状況』1926(大正15)〜1944(昭和19)年 内務省警保局 復刻版・1973年 三一書房
(労働)は『資料愛媛労働運動史』愛媛県商工労働部労政課編集・発行 1958(昭和33)年
(警察)は『愛媛県警察史』愛媛県警察史編さん委員会 愛媛県警察本部発行 1958(昭和33)年
(記録)は『朝鮮人強制連行の記録』朴慶植著 未来社・1965年
(年表)は『朝鮮半島近現代史年表』市川正明 原書房・1996年
(大事典)は『愛媛百科大事典』愛媛新聞社・1985年
●1939(昭和14)年まで…出稼ぎ期
1924(大正13)年
住友別子鉱山に労働組合結成。
8月20日、住友別子鉱業所は「不良分子」(労働運動活動家であろう)として13名の労働者を解雇した。その中に東平(トウナル)集落の韓国人・金又九(キムユグ)さんがいた。(顛末)
1925(大正14)年
12月27日、住友別子鉱業所は、「性行もっとも不良なるもの」(これも恐らく労働運動活動家であろう)として大量71名の労働者を解雇した。その中に慶尚南道陝川(ハプチョン)郡伽耶面出身の金鶴東(キムハクトン)さんと同道梁山郡上西面出身の金義郷(キムウィヒャン)さんがいた。(顛末)
1933(昭和8)年
2月1日、協和主義の東光会結成(朴在[王+施])
4月9日、協和主義の愛国青年団結成(朴来壽)
1936(昭和11)年
5月28日、今治市会議員に理髪業鄭(チョン)米介さん(34歳・全羅南道出身)が立候補した。得票数23票で落選。(特高)
この年、韓国から愛媛へ、関釜連絡船経由で1256人が、その他の方法で5人が移住してきた。(特高)
このころ、国防婦人会県本部代表、将兵慰問のため上海、南京へ出発。
注:国防婦人会は1932(昭和7)年陸軍省の指導統制によって創設された軍事援護を目的とする婦人団体。愛媛県では1935(昭和10)年ごろから松山市などで会作りが始まり、県本部は松山連隊区司令部(連隊とは別組織。徴兵関係が中心任務)に置かれ、本部長は烏谷中将夫人がなり、11年4月には13万人の会員がいた。(大事典)
1937(昭和12)年
7月7日、北京蘆溝橋で日中両軍衝突、日中戦争始まる。
1938(昭和13)年
2月「内地在住朝鮮人の銃後活動状況」(特高)
愛媛の在住韓国人の愛国献金は、団体が一口1890円、個人が8口1150円であった。この献金はこの年から1945年まで継続される。以下この件の載録は省略。
4月、「国家総動員法公布」。
6月、愛媛県在住の韓国人の多くは無産者で、土工、飴行商等に従事していたのが、最近古物商
に進出し、日本人と軋轢を生じている。(特高)
同月、朝鮮人を北宇和郡北灘村の工事現場に斡旋。日給1円40銭〜50銭。(特高)
7月、新居郡泉川村新居内鮮融和会の会友72名が国防婦人会へ入会した。(特高)
7月3日、宇和島内鮮共済会が仏海寺にて戦死者の遺族35名を招き、合同慰霊祭。(特高)
7月4日、「国民徴用令」が発表され(日本人に対する)大々的な動員が始まった。(記録)
10月、愛媛の鉱山労働者数6、886人。(労働)
12月2日、三津浜愛信会(韓国人団体)27名が県招魂社基礎工事に勤労奉仕。
昭和13年3月、県護国神社が愛媛招魂社と改称(松山市新立町)、昭和14年10月現在地に新社殿を竣工し、内務大臣指定護国神社となった。(大事典)…この項はこのときの勤労奉仕である。
●1939(昭和14)年7月28日以降…募集期
1939(昭和14)年
1月22日、新居浜内鮮融和会会員54名が納税報国会を結成した。(特高)
5月1日、住友別子鉱業所がこの日より、雇い入れ3ヶ月以上の者を団体生命保険に加入させ、在職中に死亡したときは遺族に保険金を支給することにする。(労働)
6月、在日韓国人を管理する中央協和会が結成された。以後全国各市町村に広げられた。会長は警察署長である。()
7月8日、国家総動員法に基づき国民徴用令公布、15日実施。初めは国民職業能力申告令による要申告者を対象としたが、のちには登録者以外にも適用され、1941(昭和16)年以降は大規模な徴用が行われた。(『年表日本歴史 6』筑摩書房)
------ここから募集期-------
7月28日付の内務・厚生両次官名義の依名(依命か)通牒「朝鮮人労務者内地移住に関する件」により同年度は85,000名の朝鮮人の「内地移入」が各業者に認可された。(記録)
12月26日、朝鮮戸籍令を公布し、同時に、朝鮮人の氏名変更に関する件(創氏改名)を公布。1940年2月11日より施行。
1940(昭和15)年
9月、「内鮮人通婚状況調」(1939年12月現在)によると、愛媛県下では、日本人女性と結婚した韓国人男性は101人、日本人男性と結婚した韓国人女性は7人である。(特高)
同月、新居浜市海陸運送業『盛実社』所属の韓国人労働者39名が賃上げ要求を掲げて休業したが警察が介入して「無条件解決」した。(特高)
12月1日、鉱山労働者確保運動が始まった。(労働)
1941(昭和16)年
1月上旬、新居浜職業紹介所が管内に呼びかけ,住友別子鉱業産業報国隊員を募集。18歳から40歳まで、旅費、感謝状、謝礼金支給などの条件。(労働)
以後帝国崩壊までおびただしい数の報国隊、奉仕隊が別子銅山に送り込まれた。
2月1日、鉱山労務者確保懇談会が開かれる。県下で鉱山勤労奉仕隊75隊(750人)結成、新居浜で10隊(100人)結成の方針。(労働)…鉱山労働者の不足が相当に深刻になっている。
5月1日、本県鉱山労働者の日収は、平均2〜3円(最高月収200円)。昼夜3交替制。(労働)
6月20日、協和会松山・壬生川両支部で補導委員講習会開催、参加者13名。(特高)
7月12日、協和会松山支部で、全支会員を対象に、神棚を設置し大麻を奉祀するための拝受式を挙行した。(特高)
この秋、第一期の募集応募者の2年契約が満期になる。経営者は再契約をさせるために躍起になっていた。
この秋、協和会松山支会ほか6支会が出征遺家族農家の稲刈りなど勤労奉仕。
10月、新居浜市内に労務者のための県営住宅400戸を完成。住友5社も年末までに700戸を完成予定。(労働)
この年、協和会今治支部が演芸隊を組織して、陸軍病院(松山市二の丸・空襲で焼失)を慰問した。(特高)
11月、新居浜市で市営労務者住宅350戸が完成。(労働)
12月8日、太平洋戦争始まる。
12月9日、韓国忠清南道礼山郡での住友鴻之舞(北海道紋別)金山労務者募集、応募者約100名が召集される。
12月10日、故郷を発って異国へ。12月21日、燕岐郡・大徳郡・礼山郡での応募者242名が厳寒の鴻之舞金山に到着。(これらの労働者の一部が後に別子銅山に移送される)
●1942(昭和17)年2月20日以降…官斡旋期
1942(昭和17)年
1月11日、住友別子鉱業所で冬季鉱山報国隊(日本人)第1次隊入所式
-------ここより官斡旋期---
2月20日、朝鮮総督府による各企業への労務者斡旋始まる。事実上、徴用の開始である。
3月20日、午後1時より住友アルミ内の集会所にて、第3回半島労務者38名の入社式を挙行。来賓として、県特高課長代理、新居浜警察署長代理、新新居浜国民職業指導所長などが出席。(住友五社合同社内報『親善』)
6月末の県下の韓国人労働者の配置は、新居鉱山16人、佐々連(サザレ)鉱山24人、伊予鉱山8人、別子西之川鉱山11人、別子筏津77人、四阪島127人、基安鉱山8人、基安東之川鉱山5人、倉敷絹織新居浜19人、住友アルミ165人であった。(中央協和会資料)
6月20日、午前9時から、県および県協議会主催で、県下の韓国人労務者労務指導職員および労務主任36人を集めて「半島人労務者指導講習会」を開催する。講師は得能社会課長および羽野特高課長で、特別指導は厚生省協和官武田行雄、内務省属井出勇の両氏。(愛媛合同新聞)
6月29日、愛媛協和会は県庁会議室において管下主要鉱山を対象とする「朝鮮人労務者指導員講習会」を開催した。(労働)(特高)
7月1日、銅増産運動がこの日より始まり、住友別子銅山は全国一を目指すことになった。そのため労働時間の延長、公休日撤廃が決められ、2割増産が目標となった。
7月、日本人の勤労奉仕隊が、7月9日、17日、26日、27日と続々住友別子銅山へ入山。(労働)
8月15日〜30日、協和会員証無所持者調査を実施、調査を受けたもの3433人中不所持247人(特高)
10月20日、在日韓国人の国民徴用開始。県内で出頭命令を受けた韓国人397人(全国では17,188人)、不出頭者158人、39.8%(全国では7,372人、42.9%)、徴用命令書を受けたもの109人、27.5%(全国では4,293人、25.0%)であった。(社会)(特高)
3年前の1939(昭和14)年に公布された「国民徴用令」がここにきて日本在住の韓国人に適用された。韓国在住の韓国人に対する軍要員徴用は、すでに前年1941年から始まっており、この年1942年からは、日本在住の韓国人を軍属として徴発し始めたのである。愛媛での記録では(社会)では「軍属」とし、(特高)では「海軍省○○土木建築関係労働者」としてある。
11月、本県85鉱山の坑内労働者は3,808人、坑外労働者は4,375人、合計8,183人であった。日本人と韓国人を合わせた数字であろう(昭和18年7月知事引継書)。
この年、新居浜市立川の韓国人寄宿舎完成。
1943(昭和18)年
2月6日、愛媛県新居郡角野町(現在新居浜市)住友別子鉱業所東平(トウナル)採鉱所で韓国人労働者が差別的待遇に抗議して怠業。就業韓国人労働者297人中、怠業参加は15人、5%であった。酒の配給に日本人との間に差別があると抗議したもの。警察が介入・弾圧した。(特高)
3月1日、韓国人に対する徴兵制実施の準備事務として、日本在住の韓国人についても戸籍・寄留届等を整備することになり、司法省を中心として協和会の協力の下で一斉調査を実施した。司法省民事局調によれば、愛媛県内韓国人男子数5,465人中、1944(昭和19)年度徴兵適齢者は187人であった。(特高)
なお、17歳以上20歳未満の者は419人であった。(1943年7月知事引継書)
3月7日、愛媛県西宇和郡の帝国鉱業開発(株)が待遇を改悪、米1日6合を4合5勺に切り下げた。これに対して韓国人労働者が、腹が減って仕事ができないと怠業で抗議。警察が介入・弾圧し、中心的な労働者4名を厳諭ののち釈放した。就業韓国人労働者24名全員が怠業に参加。
4月15,6日ころ、北海道住友鴻之舞から住友別子銅山へ移送された、韓国忠清南道出身の韓国人労働者244人とその家族46名が到着した。
5月7日、住友鴻之舞の募集人によって、兄朴順童さんの身代わりとして北海道へ連行され、さらに住友別子銅山に移送されてきた韓国人朴順福さんが余慶坑で事故死した。
6月25日、住友鴻之舞から住友別子銅山移送されてきた青山英俊さん(東平の昭和寮に居住・韓国忠清南道礼山郡出身)が死亡。(東平葬祭扱所霊簿)
8月2日、住友鉱業(株)田坂島(四阪島?)製鉄所の日本人指導員が無断欠勤した韓国人8名に「減食」懲罰を科した。これに憤慨した同僚韓国人労働者60人が同指導員に抗議した。警察が介入、労働者側が指導員に傷害を加えたとし中心人物3名を検挙した。他の労働者は「厳諭」を受けた後就労した。この事件では、稼動韓国人80人のうち、60人(75%)が抗議に参加。なお、抗議運動の中心人物安井栄燮さん外10名に罰金50円ほかの略式命令があった。(特高)
9月、住友別子鉱業所は8月1日から9月末まで、重要鉱物非常時増産運動で熾烈な増産戦を展開。(労働)
この年、日本在住韓国人を対象に陸軍特別志願兵募集。愛媛は応募2名、うち1名合格。(特高)
11月24日、住友鴻之舞金山から住友別子銅山に移送されてきた、林憲昌さん(韓国忠清南道燕岐郡出身)が殉職。(東平葬祭扱所霊簿)
11月29日、住友鴻之舞金山から住友別子銅山に移送されてきた、岡山初煕さんが殉職。(東平葬祭扱所霊簿)
日本在住韓国人を対象に陸軍特別志願兵募集。愛媛は応募2名、うち1名合格。(特高)
この年、住友別子鉱山は「軍需会社法」の適用を受けた。従業員は現地徴用。(『住友別子鉱山史』)…これによって従業員の転職は禁止され日本人労働者も事実上の強制労働状態となった。
1944(昭和19)年
2月5日、住友五社合同社内報『親善』15号に韓国人労働者の「滅私奉公」の仕事ぶりが紹介される。紹介された労働者は、田村宗漢さん、星本秉夏さん(ともに韓国忠清南道礼山郡出身で鴻之舞から別子へ移送されてきた)、黄海善さん(慶尚道出身)の三人。
2月22日および27日、「逃走朝鮮人労務者一斉取締要綱」により一斉取締が実施された。近畿・中国・四国・中部・北陸の6ブロックで6,422人が調査対象とされた。そのうち協和会会員章不所持者は385人だった。(特高)
4月7日、北海道鴻之舞から移送されてきた金文洙(東平の昭和寮に居住)さんが新居浜市立川山654番地で死亡した。
4月16日、住友5社、この日より一斉に労働時間を1時間延長した。
5月3日、韓国人南平錫奎さんが住友別子銅山筏津坑で事故死。南平さんの死亡については別子山村南光院過去帳に記載がある。
6月5日、住友別子鉱山に到着した韓国出身青少年○○名の入所式が挙行された。「向こう○ヶ月間坑内作業のための基礎訓練を受けたのち本格的な採鉱作業にあたる」とある。(労働)
『愛媛県史』には在日韓国人青少年が「勤労奉仕」で住友別子銅山に入坑した旨の記載がある。
6月、「移入朝鮮人逃走状況調」。愛媛県内で発見された「逃走者(職場放棄者というべきか)」は8名。愛媛県内での職場放棄者は1名。すべて単身者であった。(社会)
●1944年9月以降…徴用期
1944(昭和19)年
10月20日、米軍フィリピン中部レイテ島に上陸。10月24日、レイテ沖海戦(連合艦隊主力喪失、海軍神風特別攻撃機初出動)。
1945(昭和20)年
1月、住友別子鉱業所・四阪島では「この島をレイテ島と思へ」と労働時間を1時間延長。軍隊式の職制となる。同・東平(トウナル)では副食物の不足が深刻。また採掘では、手掘りをさせてまでして人力を総動員した。(労働)
8月15日以後、県内韓国人徴用労務者約1,000人が集団で帰国した。(警察)
メモ
※(警察)
※1948(昭和23)年末、愛媛県内韓国人人口3,235人(警察)
※日和佐初太郎写真集『別子あのころの山…』より
1955(昭和30)年「当時鹿森社宅の人口は、276戸で1200人…」
1956(昭和31)年「四阪島には3000人あまりの人が住んでいた…」
1957(昭和32)年「このころの東平(トウナル)の人口1600人…」
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