東平(トウナル)集落の死者1998年4月 |
4月はじめ、久しぶりに住友別子銅山記念館を訪れた。松原事務局長のお供である。今回の訪問は記念館所蔵の「東平(トウナル)葬祭所霊簿」を見せてもらうのが目的。住友別子銅山の中心部であった東平にあった寺の「月命日」法要のための名簿が残っていたのである。『住友別子銅山で<朴順童>が死んだ』を出版して以後、住友別子銅山記念からもぼちぼちと資料の提供を受けるようになった。 館長さんと係の方の案内で事務室の奥の部屋に通され、さっそく「霊簿」を見せていただいた。3センチくらいの厚さがあったと記憶するが、丁寧な作りの和綴じ本を2冊示された。この2冊に東平でなくなったすべての人の名前が記されているのである。
東平は海抜650メートルから800メートル、燧灘がはるかに見下ろせる。戦時動員された韓国人たちはこの海を河と見間違った。日露戦争直前の時期である1902(明治35)年の前年、東平に坑内で採掘された鉱石を運び出すために第3通洞が通され、選鉱場も設置された。東平の歴史はこのときからが始まり、昭和2年までがピーク。その後はいま「マインとピア別子」として親しまれている端出場(ハデバ)が選鉱本部になる。
(この項『角川地名大辞典』による)。
延べどれほどの人間が東平で暮らしたのかは知るよしもないが、とにかくここで死亡した人はすべてこの「霊簿」に記されているのだと言う。それだけではない。「霊簿」を繰ってみると、死亡場所が静岡になっている人も出てくる。この人は東平で働いていてその後静岡に移りそこで死亡したわけだが、銅山はこのような人も同様に供養していた。 今回の私たちの調査目的は、戦時動員期間(昭和13年から昭和20年8月まで)における東平での死亡者の実態をつかむことである。『住友別子銅山で<朴順童>が死んだ』を書き上げて痛感していることは、韓国人を調べるだけでは「大東亞戦争」の加害性がつかみきれないのではないか、と言うことであった。天皇政府のもつ自国臣民に対する加害性をもっと明らかにしたいのである。
さて、霊簿を1枚1枚繰って調べた結果わかったことは大略次のとおりである。 @7年間で146人が死亡 国民総動員法公布以降、日本帝国の無条件降伏までの7年間に東平集落で死亡した人の数は146名である。 A5歳以下の子どもがたくさん死んだ そのうちちょうど50%にあたる73人は10歳未満の子どもである。5歳以下の死亡者は全体の35.8%、63名である。 B乳児の死者が多い 死産2名を含めて、満1歳未満での死亡者は22人、全死亡者の15.1%、10歳未満の死亡者の中では30.1%を占めている。 C「20代、男」なら戦死 20代、30代の死亡者は25人。そのうち男性は13人であるがそのうち8人は戦死者である。記念館の方と一緒に「霊簿」を見ていくうちに、誰もが「20 代の男……戦死者」と予想がつくようになったほど多い。 D60代の死亡が多い 60代の死亡者は18人。これも多い。11歳以上の死亡者の4分の1を占めている。 E韓国人は4人 この中で韓国人の数は、4人。11歳以上の死亡者の5.5%である。忠山明俊信士、法雲自覚信士、玉光貞順信女、観岳良春信士に合掌。 F殉職者は3人 殉職者は50歳の日本人男性、41歳の日本人男性、35歳の韓国人男性の三人だけである。 Gほとんどが病死? 死亡者全体から戦死者8人、殉職者3人を除いた135人は病死と言うことになる。ただし、29歳の女性で、「坑道負傷」による死亡でありながら殉職扱いを受けていない例があり、仕事中の負傷が原因で死亡したケースもあると推定される。 | |